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第89課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・44・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23・・・
「こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受け入れられるのである」(14:18)。この言葉は前節を確認するものです。「こうして」(in
these things)という語は、明らかに前節の義と平和と喜びを指しています。これらのものが存在するところに、飲食についての相違などは、キリスト者の強い結束を破壊することはできないのです。真の義と聖霊による平和と喜びをもっている人は、これらの賜物を与えて下さった神に受け入れられるばかりでなく、人にも受け入れられるのです。
このことは信仰深い霊的なキリスト者は常に人に受け入れられるとか、すべての人たちに受け入れられるということを、決して意味するものではありません。時として、信仰深い霊的なキリスト者が少数派であって、大多数の者がより通俗的で人の心をくすぐるような教えに拍手喝采するという場合があります。そして忠実なキリスト者は自分とその主張が、いつも誰かによって反対されることを覚悟しなくてはならないのです。
その上、教会においても、反対する人たちが常に存在することを覚えておかなければなりません。しかし、時が来ると、忠実なキリスト信者は必ず人たちに受け入れられるのです。彼の真理への証言が無視され、軽蔑されることがあるかもしれません。しかし、時が来れば、神が彼の義を明らかにし、彼の判断が正しいとされるのです。忠実に神の真理を証言している信者が、長期間にわたって非難され中傷され迫害された時代が、教会の歴史の中に幾度もありました。しかし、時が来たとき、彼らが真理と義に立っていることが認められたのです。
「こういうわけで、平和に役立つことや、互いの徳を高めることを、追い求めようではないか」(14:19)。ここでパウロは、ローマにいるキリスト信者に対して、平和と相互の徳を立てることの義務を命じています。強いキリスト信者があらゆる場合に自己の自由の権利を行使することよりも、このことの方がはるかに大切なことなのです。
キリスト教的愛、キリストの模範、先に論点とされた事柄はどちらかといえば、些細なことに過ぎないこと、真理の重要性、真の宗教の性質、これらのことすべてが、私たちに対して相互の忍耐と寛容を勧めているのであるからには、私たちは平和と相互の建徳を勧めるように努力しようではないでしょうか。(ホッジ)。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」