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「キリスト教百話」
問25 キリストの再臨では「最後の審判」があることが信じられているのですが、それはどういうことですか。
答・・2・・
既に触れましたように、キリスト教では、神は歴史の支配者であり、世界の歴史は神の経綸の舞台であると受け止めております。すなわち、ことを始められた神は、またことを終えられる神であられるという信仰に立っております。このことを「神はα(アルファ)でありΩ(オメガ―)である」とも言っております。こういう歴史の支配者であり、それ故に最終的にことの決着をつける主である神がおられるということが信じられなければ、最後の審判ということは、問題にはなりません。
しかし、わたしたちには、自分の人生の決着はどうであるかについての気がかりがあるのではないでしょうか。ミケランジェロの描いた「最後の審判」の絵が多くの人の関心を惹き、また仏教の「地獄絵図」にみんなが見入るのは、親鸞の「地獄は必定わが住家ぞかし」という言葉が、他人事にならず、自分のこととして迫ってきているからではないでしょうか。
ただし、親鸞は、そう言いながら「そういう自分であればこそ、そういう自分を救ってくださるところに阿弥陀の本願がある」と言って、救いの確信をのべています。ヨハネは「自分がどのようになるかは、まだ示されていません。・・・しかし、御子(キリスト)に似たものとなるということを知っています」と言っています(ヨハネの手紙Ⅰ、3:2)。これは、「わたしはダメだ」みたいな言い分ではなく、期待と希望に満ちた信仰の告白です。それは自分が自信満々であるからでなく、神の計らいの確実であることへの信頼から出ている言葉です。
聖書が告げていることは、わたしたちの人生に対する決着は、既に完了しているということです。
それはどういうことかと言いますと、イエス・キリストが十字架につけられたことにおいて、神に対するわたくしたちの罪(神に対する見当違いの生き方、つまり自分がすべてであるとしている生き方)は、すべて、完全に、裁かれていて、それによって、わたくしたちは新しく神様によって肯定されるものとして生きることを許されている、ということであります。
このことが非常に大切なところですが、神様の前には、そのままでは到底立つことが出来ない者が、今やそのあるがままで、臆することなく立つことが出来るのは、罪のないキリストがすべての人の罪を担って、すべての人の為に、すべての人に代わって、神の裁きとしての死を死んでくださったことによって、すべての人が、全く新しい人として生きることが出来るようになった、ということであります。とすれば、これからの展望も、神の計らいを受けての新しいものとされているわけですから、最後の審判はむしろ喜びを先取りしてよろしい、と言える性格のことではないでかと言えるのであります。神様が神様であられることは、キリストの十字架と復活において明らかにされていることでありますから、後はこれに相応しく生きることであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」