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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・18・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
10 高知とマカルピン・・1・・
浦戸湾の美しい海面をすべるように船は高知港に入った。港には多くのキリスト者が一行を迎えに来ていた。同行者のミロル師は、先年、高知教会(日本基督教団高知教会)の設立式にも聖書朗読の役をしており、この若い宣教師の案内役でもあった。上陸すると旅館の「延命軒」に案内された。発音が、アメリカンに似ているのでマカルピン師は〝アメリカンホテル″と言ってよろこんだ。外人用のベッドも準備されていた。
日曜日、高知教会に出席し山本秀煌牧師、長老片岡健吉氏に会った。礼拝は100名ほどでこの日大人の礼拝者が17人であった。当時、高知教会はまだ会堂もなく、高知市中島町の森武興氏宅を集会所にし、信徒の多くは一家の家長の三十代の者が多く、藩出身の士族で板垣退助の指導する自由党の民権運動家であり、それぞれ一家言を持つ闘士たちであった。教会設立以来一年足らずで、既に100名の会員を有する進展ぶりであった。
マカルピン師はその夜、寒々とした芝居小屋で開かれたキリスト教演説会に出席した。4人の弁士に熱心に聞き入る1000人余りの聴衆に、マカルピン師は驚いた。キリスト教に対するこの熱心な高知人に「鉄は熱いうちに打て」との格言を思い起こすのであった。
幾万という熱烈な仏教徒に対して、たった一軒のクリスチャンホームしかない名古屋と引き比べて、ここは何と大きな違いであろうか。日本伝道に未経験な若い二人の心は決った。こうして南長老教会の第一の伝道地は高知となったのである。
当時の日本に外国人が居住するためには、誰かに雇われていなければならなかった。すなわち「お雇い外国人」として、日本の文明開化に貢献する仕事がその居住の条件であった。
マカルピン師とグリナン師の両名は板垣退助、片岡健吉氏の関係していた男子の高知共立学校(明治14年10月設立 明治15年10月追手筋に移転)のお雇教師となって英語を教えることになった。これは宣教師として、青年たちと英語を介して接触し、キリスト教入信のいとぐちとなるものであった。このことは結果として、後にこれらの者たちの中から召命を受けて牧師となり、有力な教会の指導者を生むことになった。
写真=豊橋教会におけるR・E・マカルピン師送別記念会(1932)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」