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今月のことば
それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを船に乗り込ませ、向こう岸のベッサイダへ先におやりになった。
=マルコ6:45=
ニュースでは元号の変更に伴う経済効果が云々されています。その前はその名称が万葉集からであることで、本の売れ行きが話題になりました。動機はどうであれ、関心を持って古典に心を向けるなら、これも感謝なことではないかと思いました。
イエス様の奇跡によって、食料の問題を解決した人々は、イエス様を王にしようと望みました。弟子たちもまた、前途に明るい未来を見たのでした。弟子たちや民衆には、イエス様に従うことは、経済的にも引き合うことを、人々がわかってくれる日は近いかと思われたのです。飢えや乾きを解決することは、とても大切なことであることは事実です。
しかし、イエス様に対するこのような関心事から、人々を救わなければなりませんでした。そこで弟子たちを嵐の夜の闇の中へと送り出したのです。
ある時代、どこの国でもキリスト教会の役員になることは、社会的信頼の証であり、経済的な利益があるという考えを信者が持ち始めると、危険は近いのです。「きよくあることはすべてに有益である」と言うことは真実です。しかし、もし、経済的利得が、キリスト教的徳の報酬であると考えるならば、それは大きな間違いをしています。そしてもし、神の祝福をそのようなものと誤解するなら、イエス様は今でも、その愛する者たちを、その最も好ましくない道へと送り出すことがお出来になるのです。
イエス様は、困難と貧困の中に人々が苦労しているのを見ることを好まれません。またキリスト者であることで、物質や富を所有するよりも、口では言えないほどに、はるかに偉大であることを教えたいと望まれます。
苦しく貧しい時代は、多くの悲劇や争いを生み出しました。そのために、知恵を出し合い、支え合い、抜け出す努力もまた私たちは行って来たのも事実です。同時に、信仰をいただいた者は、信仰と忍耐と祈りと希望を得ているのです。失うことよりも与えることを学び、支え合い励まし合うことを望み、日々の生活の中でそれを体現することを学ぶのです。
嵐の中で弟子たちは何を見たでしょうか。イエス様が舟に乗って来られ、海が静かになった時、イエス様とは何者なのかを改めて知ったのです。
冒頭の聖句は、6章30節から52節の一部分です。お手元に聖書をお持ちなら、この個所を是非お読みいただきたいと願っています。
「神の国は飲食ではなく、義と平和と、聖霊における喜びである」からです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」