[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「キリスト教百話」
問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・2・・
わたしたち日本人は、昔から「天地神明にかけて恥じない」生き方を良しとしてきました。そう言い切れる人を立派な人としてきました。そういう言い方でもって自分を律してきた人には尊敬の念を払います。但し、その場合、「天地神明」というのは何をもってそう言うのかはっきりしているわけではありません。「天地神明」と言うからには、人間を超えた存在が前提されているでしょうし、そういう言葉を聞く者にとっても、漠然としてではあっても、なにがしかの共通理解をしているように思います。単に「人倫に照らして」という次元のことではなく、人倫と言うにしても、人間を超えた存在との関係の中でのこととして考えられているように受け止められているわけです。
と言うことは「天地神明にかけて」と言っても、その「天地神明」は、はっきりした人格的意思表示をしている存在ではないと言うことです。モーセが十戒を与えられた時のように、「わたしはあなたがたをエジプトから導きだした主である」という神様の名乗りが挙げられて、その上で「わたしのほかに何者をも神としてはならない」ということを始めとして、「殺すな」「盗むな」「姦淫するな」などのように、はっきりとした神からの人格的意思表示を受けてのことではないのです。
「天地神明」という言葉に、まるで人格的なものが想定されていないと言うのではありませんが、あるとしても、それは擬似人格的と言ったらよいか、人格な匂いがすると言ったらよいかと思う程度で、モーセの場合とか違うのであります。これはモーセに限ることではありません。イエス・キリストは「わたしを信じなさい」と言われ、「わたしの戒めを守りなさい」というように、はっきりと意思表示をされています。従って、これにどう答えるかが問われているわけで、「最後の審判」ということも、こういうことからして当然のこととして理解され、受け止めてもいるわけです。
「天地神明にかけて」というのと「イエス様の御心に照らして」と言うのとでは、以上のような違いがあるのです。日本人の中にある「諸行無常」というとらえ方を自分なりにしているのと、「あなたは・・・」という問いかけを受けている者とでは、その人生を含めての最終的な決着がどうつけられるかがそうはっきりした問題意識にはなって来ないのと、これが大きな問題となってくるのとの違いが出てくるのは当然ではないかと思います。
どちらが良い悪いかの問題ではなく、「最後の審判」と言うことが問題になるか、ならないかの人生基盤に違いがあることを先ず明らかにしておきたいと思って、以上のことを述べた次第です。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」