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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・19・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
10 高知とマカルピン・・2・・
1887年(明治20)4月10日、マカルピン師にとって、生まれて初めて日本語による洗礼式を20人に施したのである。これは一生涯忘れることはできない、大きな印象であった。
その頃高知では、先生が生徒を引率して時々神社参拝をした。ところがその中に、12名のキリスト者の生徒がいて、神前でお辞儀をすることを拒んだ。そして、ほかの生徒たちにも参拝を拒否するようにすすめた。先生たちは神社参拝の礼を率先して示して、生徒もこれにならうようにすすめたが、生徒たちは「単なる偶像に礼拝することはできない」と聞き入れず、先生たちを冷笑した、ということである。
こうしてキリスト教信仰の影響感化によって生徒たちは、「信仰の自由」と「良心の自由」を目ざめさせたことは、高知伝道の良い成果であった。
グリナン、マカルピン師たちの片言まじりの説教でも、高知人にはよく通じたのである。太平洋に向かって開かれた高知の県民性には、新時代への展望とビジョンを持つ進歩性が指導者階級にあった。
明治3年(1870)8月の神道国教化とともに廃仏毀釈が高知全県下に行われて、あらゆる寺院仏閣が破壊され、その数458ケ寺に及んだ。現存の寺の多くは、その後復興したものである。
革新の気風は県下にみなぎっていたのと、自由民権家の多くの者が、その倫理性をキリスト教に求めてフルベッキ師、タムソン師、ミロル師、ナックス師、アレキサンドル師、バラ師、プライス師、ハートス師などの外国宣教師や植村正久氏、押川方義氏、片岡健吉氏、岡弘毅氏などの来県伝道によって、高知教会は、その設立当初信徒21人であったのが、6ケ月後の1885年(明治18)11月には82人、1887年(明治20)12月には328人、1890年(明治22)12月には556人、1891年(明治23)12月には618人と躍進したのである。
高知市に関する限り、宣教の働きは日本の牧師、信徒の伝道で十分であった。マカルピン師は、むしろ高知県の郡部の遠く宿毛、中村地方や東部の安芸、田野方面に、北部は山奥の本山、土佐山、樫山地方に伝道した。もちろん、こうした伝道には日本人の信徒が同行して集会を助けた(後日、須崎、幡多郡地方に再度伝道したマカルピン師によって大正年間宿毛教会(現日本キリスト改革派宿毛教会)の会堂が建設された。(当時、主任伝道者今西延幸師)。
写真=J・Aマカルピン宣教師夫妻按手及び日本伝道出発当時の父子(1935)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」