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十戒と主の祈り・・7・・2・・ 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=安息日=
第四戒③・主の日
レビ記23・1~3
先回、安息日は救いの日ですから、喜びの日、感謝の日であることを学びました。今回は安息日の過ごし方について学びます。
第一に、レビ記23章2節から3節で繰り返されていますように、主人はモーセに安息日は「聖なる集会の日である」と言われました。集会のために聖別された日ということです。ただ休むためではなく、集会の日です。
第二に、その集会の日は、安息日の詩篇92編によると、「主の祝日」(2)であり、人々は御名をほめ歌い(2)、御手の業を喜び歌いました(5)。また、主の真実を宣べ伝え(3)、主の正しさを宣べ伝え(1)ました。ここに安息日の守り方の基本が見られます。また、そのことは、列王記下4章の預言者エリシャにまつわる一つの出来事から推測できるように、この日に預言者の言葉を聞くことで、神の言葉を聞く日でもあったことを暗示しています。
北のイスラエルにおいてさえ、人々が、安息日に神の言葉を聞いていたことは、シネムの女が、自分の死んだ息子のことで、預言者エリシャの所へ、ろばに乗って行くことに対して、夫が彼女に、「どうして、今日その人のところに行くのか。新月でも安息日でもないのに」(23)と言っていることからからもわかります。
第三に、新約聖書に繰り返し出てくる会堂での安息日の状況から分かります。会堂は、バビロン捕囚の時代に起源があると言われていますが、人々は、ごく普通のこととして、安息日に集まっていました。主イエスご自身も安息日には、会堂を神礼拝の場所に使われました。
ナザレにおいて、「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻き物が渡された」(ルカ4:16~17)とあります。礼拝の後で、病人を癒されました。右手のなえた人(同6・6)、18年間も腰の曲がったままの女性(同14:10~11)を癒されました。パウロとバルナバがビシデア州のアンテオキアで安息日に会堂に行った時のことですが、律法と預言者の書が朗読されると、「兄弟たち、何か会衆のために励ましの言葉があれば、話してください」と言われて、パウロが語っています(使徒13:14~41)。
こうした多くの例から明らかなように、安息日には、神の言葉が朗読され、それに基づいて、説教がなされました。
このように、安息日は仕事を休めばそれで良いということではなく、讃美と神の言葉を聞くことをもって、主なる神を礼拝するために聖別した日として休まなければなりません。このように、休むということが私たちだけでのためにあるのではありません。主なる神がなさってくださったことが語られ、それを聞き、喜びと感謝をもって神を讃美します。信仰者は、主人にあって、こういった意味で休むことに、最も深い喜びを見出します。
第四戒④・神への感謝
ネヘミヤ13:15~22
今回は安息日の戒めを破ることについて、聖書から学びましょう。すでに学んできましたように、安息日は休息の日、礼拝の日です。しかし、旧約聖書を見ると、常に感謝をもって守られていたわけではありません。
このネヘミヤ記は、バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民に向かって、ネヘミヤが紀元前4世紀の末ごろに記したものとされています。ここに記されている言葉からもわかりますように、安息日を守ることに積極的ではなく、いやいやながら守るというような雰囲気が見られます。ネヘミヤが問題にしているのは、安息日に商売をするために、前もって商品を都に運び入れようとする人々を締め出すために、金曜日の夕方に都の門を閉ざして、安息日にも門を開けず、安息日が終わって初めて開くようにさせたということです。安息日が始まった夜に城門の外で休むことさえ禁じました。
安息日を守るという命令は、積極的な意味で守ることに意味があることをすでに学びました。なぜなら、それはエジプトの奴隷状態からの解放であり、罪の奴隷から自由にされた自由の律法だからです。従って、この日に、私たち信仰者は神への感謝を表明する日です。ところが、守りたくはないのに守らなければならないという奴隷的な意識で安息日を過ごすのであれば、安息日の祝福を受けていないことになります。もしもそういうことであれば、何とか理由をつけて安息日を守らないようになるでしょう。
安息日に商売をし、仕事をしようとする人は、第四戒だけでなく、他の戒め、例えば第八戒めの盗み、第十戒の貪欲の戒めも違反していないかをチェックする必要があります。ネヘミヤはそうした点を問題にしているからです。
ウエストミンスター信仰告白第21章8項に、安息日の例外的な働きとして「神様礼拝と、また必要な義務と、慈善の務め」の3つが挙げられています。ここで必要な義務は何を指すかということになります。スコットランドのロバート・ショウは、ウエストミンスター信仰告白の注解書の中で、その内容として、「教会への往復、町の防衛、航行中の船の運転、消火と運搬、家畜の給食と世話、病人への訪問と助け、幼児の世話」を挙げています。
七日の内の六日間は自分のものですが、一日は主なる神のものです。それゆえに、神のためにとっておきましょう。大きな恵みをくださった神のものを盗むことはあってはなりません。主は、安息日だけでなく、七年目を休耕年とされましたし、50年目をヨベルの年として、その年に奴隷は主人から自由になり、土地は返却されました(レビ記25:1~12)。それらは本来、神のものだからです。安息日は私たちが神のものとされたことを、最も明白に教えてくれる日です。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」