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「小閑記」
わたしのした事を何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません。
=ヨハネ4:29=
私たちは人に知られたくないものを、心に隠し持って生きているとも言えます。それを、日本人は時に、「墓の中まで持って行く」という言葉で言い表すところがあります。
聖書の中に、「律法がなかったら、罪は死んでいた」とあります(ローマ2:1~、7:7~24をご参照ください)。
この冒頭のみ言葉は、サマリヤの霊的にはまだ覆いのかかっていた心の目の女性が、井戸のほとりでイエス様にお目にかかった時のことを、このように叫びました。「わたしのした事を何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい」。
その人は昔の預言者でもなく、モーセでもありません。キリストであったのです。ペテロが浜辺で主にお目にかかった時、自分の罪を今までになく、はっきりと見なければなりませんでした。
ペテロは言いました。わたしはつまらない男です。危ない時には逃げ出します。わたしのことは構わないでください。行かせてください。わたしは何の値打ちのあることはできませんよ。イエスよ、わたしから離れてください・・・と。
イエス様の愛より発する光に照らされて、自分の罪と不貞、不信仰を見る時、その時でもなお恥と信仰の未熟さとの中にいるのです。
「あなたこそ神のキリストです」と告白し、わたしはあなたを知らないなど、言うはずがないと自負していたペテロ、激しい言葉で知らないというペテロは私たち一人ひとりです。
その時こそ、罪人を悔い改めさせるお働きをなさるのが救い主なのです。イエス様が救われるのは、自分が罪人であるとことを認める時です。しかし、信仰が与えられ、キリスト者になったその時から、実はこの「自分の罪人である自覚」は薄れていくのです。
もう救われている自分という間違った自覚、身勝手さに陥りやすいのです。
この自覚の希薄さは「信仰の老化・劣化」そのものであると自戒することを、ひと時も忘れない信仰と日々の歩みをしたいものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」