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第90課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・45・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23・・・
「すべても物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる」(14:20bc)。
ここの「悪」という語は、「有害である」だけではなく、「悪である」という意味も持っています。すなわち、宗教的に悪なのです。「それを食べて人をつまずかせる者」の意味については、弱いキリスト信者をつまずかせるような仕方で、食物を食べる強いキリスト信者のことを述べているのか、または良心が認めないのもに関わらず食べてしまう弱い兄弟を指しているのかという問題が起こってきます。
これら二つの理解の双方に賛同者がありますが、前者の解釈の方が一般的に受け入れられており、正当であると考えられています。この見解によりますと、この語句は弱い信者がつまずくような仕方、すなわち彼らがその良心の認めないことを行ってしまう原因や契機となるような仕方で、飲み食いをすることを避けるように、強いキリスト信者に警告していることになります。「この語句が弱い兄弟たちをつまずかせる危険のある強い信仰者に対して語られている二つの語句の間に位置しているという事実からも、この解釈が妥当と考えられる」(アルフォード)。
「肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである」(14:21)。すなわち、肉や酒やその他、兄弟たちをつまずかせるようなものを節制することは道徳的には義務的であり、正しいことです。宗教的にではなく、道徳的に望まれることです。ここの意味は「私たちは弱い兄弟たちがつまずいたり、たとえ僅かでも、傷ついたりするような事柄はすべて、節制すべきである」。「つまずかせる」と訳している原文は三つの言葉、stumbleとo
Offendと Make weakが用いられています。このように同じような言葉が三つ用いられているのは強調のためであり、これはパウロの手法です。
すでに見てきたように、この章における「弱い兄弟たち」の「弱さ」というのは、放縦や不節制への傾向という弱さではなく、強いキリスト信者たちであれば用いても自由であると確信している物を用いることを控えるという、弱い信者が導かれる「宗教的ためらい」という弱さです。
12:21がこの文脈の中にあり、「信仰の強い信者は、どのようにその信仰の自由を行使すべきかである」という主題の一部である限り、14:21は、弱い兄弟たちが、宗教的なためらいを持っていたという事実をめぐる問題として取り扱っていると解されなければなりません。
弱い兄弟たちへの配慮から、強い信者たちは喜んで、弱い信者たちの益となる限りは、自分の信仰の自由の行使をさし控えるべきことです。人々の前で行使されることが信仰の自由の本質ではありません。それどころか、聖書は、キリスト者の自由は神の御前で行使されるべきものであり、神はこの信仰の自由の行使の濫用に対して、キリスト者に責任を負わせられることを教えているのです。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」