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問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・2・・
死後に、生前してきたことに対する裁きがあることは、仏教説話の中に、様々な仕方で、説かれています。そういう説話を枠づけているものは「因果応報」原理ではないかと思います。この原理はなかなか説得性を持っていました、どこかに後くらいものを覚えている人にとっては、死後どうなるかについての不安がありますから、死期が近づいてくると、殊勝な生き方をしたり、死後遺族の供養によって、好ましくない応報を軽減または消滅させてもらえるのではないかという期待を抱きます。
また、そういう期待がありますから、その期待を死者に反映させて死者供養と称する形での行為に委ねているのではないかと思います。
死者に対して「安らかであれ」という思いも、つきつめていけば、応報の原理に支配されているのではないかと思えてなりません。それがどうしてかというと、「安らかであれ」というのは、「安らかさ」だけが支配していると信じているなら、敢えて「安かれ」と祈ったり願ったりする必要はないからです。
死者の死後についての不安材料が皆無とは言えないために、「安らかに」と祈るのではないでしょうか。そういう不安材料の軽減や消滅のために考え出された様々な供養と称する行為をしているのですが、「慰霊」と称しての行為と同様、その行為が文字通り供養や慰霊になっているかどうかについては確かめようがありません。
強いて言えば、それは、そう信じてのことである、といことになります。
仏教説話の類は、この点について実に巧みな展開をしておりまして、地獄極楽について、特に地獄の様相についての綿密は解説をしていました。それは、現世における生き方を正すための方便としては優れたものであると言えますが、人間の生が、なまやさしいものでないことを捕らえている点では頷けるものがあっても、その様相は虚構(フィクション)であって、そういうものへと現われてきている真実に注目しなければならないのではないかと思うのです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」