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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・20・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
11 名古屋地方とマカルピン・・1・・
1887年(明治20)6月、マカルピン師は南長老教会ミッションの第二の伝道地である名古屋に駐留することとなった。古い伝統と仏教(真宗)の金城湯池と言われた土地柄、しかも切支丹殉教者2000名の地として知られているところであって、キリスト教に対する態度は冷淡であった。ここには、バラ先生の伝道した少数のキリスト者の群があり、講義所を委任されて、それを足掛かりに伝道することとなった。
その年の10月7日、R・Eマカルピン師はバラ先生の娘アンナ・ヘップバーン・バラ嬢と横浜で結婚した。時にマカルピン師は25歳6ケ月の青年宣教師だった。新家庭のマカルピン夫妻は、伝道困難な愛知県と岐阜県の東美濃地方に伝道した。
この冬、中国の漢口に伝道していたアンニー・E・ランドルフ夫人が健康不良のため、その保養に名古屋に来てマカルピン師夫妻とともに暮らすことになった。夫人は健康が快復するにつれて何か働きを求めるようになり、宣教師として日本の女性のために奉仕すべく塾教育を始めた。彼女の特技は編み物で、中国語をよく知っており、聖書知識と堅い信仰、英語などによって福音への道を拓こうと考えたのである。
初め三人の日本人の女生徒であったが、やがて数もふえて明治22年(1889)には、二部屋まで使用するように発展したので、マカルピン師は隣家に移転しなければならなかった。女子教育の事業はミッションにとっても必要な事業と認められて、これを育成することになり、それが成長して遂に今日の金城学院にまで進展したのである。
名古屋、高知と南長老教会ミッションの宣教師も、この年には14名となった。S・P・フルトン師(Rev samuel peter fulton)がこの年に来日し、やがて岡崎を中心に三河地方の山奥津具地方にまで伝道を進め、マカルピン師は、名古屋、多治見、中津川、坂下などを足場に、更に山奥へと伝道区域を広げて行った。バラ先生の伝道の種は成長し、更に、マカルピン師はこれに水を注いで育てる働きをされたのである。
写真=R・E・マカルピン師金婚記念と訪問の市村与一氏(1937年10月)
引退後のR・E・マカルピン師72歳(1934)。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」