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(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=安息日=
第四戒⑤・働きの完成
出エジプト16・13~29
旧約聖書の歴史を見ると、安息日として週の第七日目を休むことが守られるようになったことが記されているのは、出エジプト記の16章です。天からのマナを集めるように命じられた時、この命令が初めて記されています。彼らは安息日というものを知っていたわけで、20章に記されているシナイ山で、十戒を与えられるまでは安息日について知らなかったわけではありませんでした。しかし、長期間にわたるエジプトでの生活で民は安息日を守ることが出来なかったのでしょう。
それが、エジプトから、イスラエル人が神の民として形成された時、創造の秩序に基づく安息日が十戒のなかにはっきりと謳われるようになりました。
「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20:11)という理由をもって安息日が定められました。
しかし、新約聖書の時代になった時、週の七日目の安息日が週の初めの日に簡単に変わったわけではないことをすでに申しました。信仰者たちは週の初めの日に働きを休むことが出来なかったからです。聖書に記されているように、週の初めの日は、朝早く集まるか、あるいは日没後に集まるかしなければなりませんでしたから、安息日ではなかったのです。
新約聖書には、週の初めを安息日とするようにという命令が、主イエスからなされていたわけではありませんし、使徒たちも命じているわけではありません。それが教会に定着したのは歴史的にはローマ皇帝がキリスト者になってからであり、教会からの命令によりました。
それなら、七日目が最初の日に変わったことが、神の意志から出たものではありません。キリスト信者がキリストの復活を祝うのに、日曜日を用いることが最も相応しいという確信に、すべての真理に導く御霊が導いて下さったからです。安息日から日曜日に変わることを明示している聖書の個所はありません。そういう意味で幼児洗礼の場合と似ています。休息、自由、救い、喜びなど、安息日が持っている意味から、主の復活日こそがその日に相応しいということでした。
使徒言行録20章7節にあるように、使徒パウロが第三回伝道旅行で、トロアスに来ていた時、「週の初めの日」も人々は集まっていて、パウロの言葉を聞きました。それは「夜中まで続いた」とありますように、この集会は夕方から始まったものと考えられます。この時はまだ「主の日」と呼ばれず、意識的に呼ばれたのは一世紀末(黙示録1章10節)でした。神の導きが主の日を安息日にしました。
=安息日=
第四戒⑥・この日が与える自由
ヘブライ10:19~25
信仰者の家族における契約の子が、大人になってから子供時代のことを振り返り、日曜日の生活は強制され、辛かったので、自分の子供たちには、同じ思いをさせたくない、という声は以前からしばしば聞きます。なぜこのような思いがあるのでしょう。キリスト信者はキリストの贖いによって神の子供とされたからには、主の日は文字通り神の日になりました。それで日曜日を真に楽しむことが出来るようにされました。それにもかかわらず、日曜日を楽しむことが出来ないのはなぜでしょう。この日は神の日であるということの意識が足りないのでしょうか。神の日ではなく自分の日であるという意識から、子供たちは不満を感じるのでしょうか。
主の日こそ、私たちが神のものとされたことを味わう日です。親自身がそのことをしっかりと受け止めていれば、心から主の日を楽しむことが出来るでしょう。そのように聖別しましょう。主の日には、通常の日々の心配事から離れるように努めましょう。職業のことだけでなく、六日間の仕事以外の働きから来る様々なことからも自由になりたいものです。仕事の奴隷でも趣味の奴隷でもないところに自由があります。
第四戒の言葉によると、この日は家族の安息の日であるとともに、奴隷も家畜も寄留の旅人にとっても安息の日です。それは、安息は個人的なものではなく、キリストによって買い取られて贖われ、自由にされ、神のものとされたことを一緒になって喜ぶ日です。信仰を与えられている親がこの日を喜び楽しむ姿を見て、子供たちはそれを喜びます。父親は教条的になる傾向がありますから、そのため家庭では母親の生活態度が主の日を楽しむことに貢献します。
すでに学びましたように、安息日は人のためにありますが、人がその日を自分の都合のために過ごす時、神のものを盗むことになるため、主の日は私たちにとって楽しみの日ではなく、苦しみ日になります。
主の日は神の日ですから、家族で教会へ行くこと、家族で祈ること、讃美すること、そして主イエスが私たちに願っておられることに心がけましょう。
警官、医者、牧師の三つに代表される仕事が、必要な仕事、憐れみの仕事、礼拝の働きを代表的に表しています。今では、医療関係、安全関係、交替制の連続勤務などが休めない職業と言えます。他の曜日に行えるのに、日曜出勤するためにやはり神のものを盗んだことになります。
ヘブライ人への手紙の10章25節は、信仰者の集会出席は仲間の励ましになることを繰り返し語ります。主の日を楽しむことは、互いの喜びとなり、励ましになります。礼拝堂の座席に高齢の兄弟姉妹の姿があることは大きな励ましになります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」