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「小閑記」
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられるべきである。
=ローマ12:2=
生活の知恵として、私たちは多くの習わし、習慣を守ってきました。社会はそのようなもので秩序立てられ、維持されて来たところは沢山あります。「伝統」や「文化」には、深い意味合いがありますが、悪しき「伝統」「文化」のあることもまた事実です。
人が最も興味を持つもの、最も欲するもの、自分の利欲となるものであれば、それがどんなに罪深く、人や社会に益しないことでも、下品なことでも、地位や富に関係なく、それをやるのが私たち人間の本性なのです。
「神より生まれたものでなければ、それ以上のことはできない」のです。
しかし、キリスト者は新しい人になったのですから、これよりも出来るはずなのです。聖書は教えます。この世につく者は自己中心である、と。キリスト者は全てのことをする出発点は、神様からいただいたキリストの愛をもっているものからスタートします。その愛とは、決して自分の私利、利得、名誉、あるいは名声を求めず、神のみこころを求めなければなりません。
旧約の祭司が犠牲をささげるように、自分を神への生ける清い供え物としてささげるべきです。
この感謝と信仰の証しとしての犠牲と奉仕において、たゆまぬ力を持つには、私たちはただ一つ、絶えず心を新たにしていなければなりません。また、世の人々を避けないで、世の習慣や習わしとは違った、違う生き方をしなければなりません。その目的のために、キリスト者として招かれ、救われたのです。その理由のためにこの世にいるのです。
私たちは、寛容であるべきです。しかし曖昧であるべきではありません。多様さを認めることは大切です。しかし、妥協すべきことを求めてはいけないのです。この自覚が薄れる時、「地の塩、世の光」を失うのです。
それをよく守り、勝利を得るキリスト者は幸いです。それは自分自身にとどまらず、人々に指針、道しるべ、良き信号機になるのです。
神の栄光を現すために、その生涯を生きようとする姿こそ、今、キリスト者と教会は求められているのではないでしょうか。
わが生くるは、ただ君(キリスト・神)ひとりのため
君をぞわれは最も愛す、われに賜いし君が愛にこたえて。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」