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問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・3・・
しかし、その真実は、先述した因果応報の原理の真実性であって、それが納得できるからこそ、成り立っている説話ではないでかと思います。
ということを、少しくどくどと述べたのは、この原理では納得できないことが人間とこの世界における事実としてあるからです。いわゆる「不条理」と呼ばれている事柄がそうです。
これは因果論では説明できません。ですから「不条理」というしかありませんが、そういう説明はつくとしても、そういう不条理という事実の中にある人にとっては、これは耐えられるものではありません。この苦悩から脱却できる「安らぎ」を見いだすことはできません。ということは、人間の側にあるものや、人間が考えることによっては解決を見いだすことができないこの「不条理」の中に、人間は放り出されていて、出口のない、そして光のない闇の世界のただなかに置かれているような存在である、というしかないのが事実ということになります。
「不条理」は説明できないから不条理なのですが、人間はこの説明がつかない事態の中で苦悩してきました。例えば、聖書に出てくるヨブという人は、神様の前にも人々の前でも全く非の打ち所のない人でした。そして資産家でした。ところが、ある日、突然、すべての子供を失い、財産のすべてを失い、おまけに体一面に腫れ物ができて、当人とは見定め難い状況に陥りました。踏まれ蹴られるの極致に至りました。
彼の妻は「そんなにまでして神様を崇めるなんてことはないでしょう。神様なんか呪って死んだ方がましよ」と言わずにおれないほどでした。しかし、それでも彼は、神に文句や不平を言うことなく「神は幸いを与えて下さる方だから、災いをくださるのだ。神様のことを悪く言ってはいけない」と言って、神への信仰を貫いたのでした。
信仰の人というのはこういう人のことをいうのかと思わされます。つまり、神を信じて生きることが、何か良い見返りがあってのことではない、ということを立証しているからです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」