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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・21・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
11 名古屋地方とマカルピン・・2・・
1889年(明治22)2月5日、バラ先生は瀬戸永泉教会(旧水野村)の小会議長として奉仕し、4月21日は同じく小会議長としてR・E・マカルピン師が奉仕されている。この日、加藤梅三郎、加藤友七、桜井タキの三名が信仰告白をして、マカルピン師から洗礼を受けた。この年さらにミッションはC・K・カミング宣教師とウイリアム・B・マキルエン宣教師(REV William Beauregard Macilwaine)を日本に派遣し、カミング師は岐阜、名古屋地方に、マキルエン師は高知に居住し伝道することになった。
マキルエン師は1932年(昭和7)まで43年間、首尾一貫して高知市に留まって伝道して、後引退された。当時高知は南長老教会ミッションの宣教師が8名駐留していたが、同年(1899)徳島県に伝道していた南メソジスト教会ミッションは、同地方の伝道を南長老教会ミッションに移譲することになり、南長老教会の3名の宣教師が徳島へ派遣された。
明治も中期に入って、キリスト教界にもいろいろな変化と動揺があった。明治23年には、前年に帝国憲法の公布があって、「信教の自由」も条件付きではあったが一応認められるようになり、10月30日には教育勅語が発布、第一回帝国会議の開会(11月29日)など、次第に文明国家の形を成してきた。1月23日には新島 襄(48)の逝去、3月には福音週報(のち福音新報と改める・植村正久)の発刊、7月にはキリスト教信者9名が衆議員になり、12月には日本基督一致教会は日本基督教会と改称した。
この頃から日本は、欧化主義の反動として富国強兵へと移行し、国家主義中心の思想へと転換して、儒教の忠君愛国を軸とする道徳が主唱されるようになった。仏教、神道、儒教主義による排外の対象として、キリスト教はその矢面に立たされた。
特に「教育勅語」の渙発は、その動機に、時の文部大臣榎本武揚が「我国の道徳を全うせんと浴せば、儒教主義、即ち忠君愛国の主義を基礎とすべし」と主張し、これに基づいて、さらに神道主義の「祖宗惟信」の道へと修正され、これが明治の欽定憲法とともに、天皇制へと確立されていったことから、「国家対宗教」論は、時の論題となって、東京帝国大学の哲学教授加藤弘之によって取り上げられた。
これは、キリスト教は日本の国体に反する教えであり、キリスト者は乱臣賊子であると言ったことから迫害も加わり、キリスト者の学校教師は教壇から追放されるといった時勢の中で、宣教師を物珍しく歓迎した者も、次には非国民と言われることを恐れて、外人敬遠の気風が生じてきた。
それだけにバラ先生やマカルピン師の伝道も、種蒔き伝道の範囲から信徒の信仰育成へと重点的に牧会的宣教への配慮が必要となってきた。この年1890年(明治23)、バラ先生は大阪で開かれた宣教師会議で開会説教をされた。また南長老教会宣教師としてJ・W・モーア師が来日された。
=写真=
岐阜加納教会イースター記念礼拝、前列左より4人目J・A・マカルピン師、その隣は伊達量平氏牧師(1939年)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」