[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
第91課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・47・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23・・・
「しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である」(14:23)。
「その人が自分の行為を正しいとどんなに確信をもっているにしても、その確信に基づいて行動することを他人に期待してはならない。もしある人があることを悪いと考えているなら、その人にとってそのことは悪いのである。だから、神がある肉を食べることを控えるよう命じておられるかどうかについて人が、ためらいながらその肉を食べるならば、彼は明らかに罪を犯したのであって、自分を定罪の下に置いているのである。何故ならば、すべて信仰によらないことは罪であるからである。私たちがそれが正しいという確信がないことをするならば、それは私たちにとって悪いことなのである」(ホッジ)(14:14にも同じように教えていることに注意せよ)。
「罪に定められる(damaned)という訳語は正しい。しかしそれは永遠に滅びを意味しているものではなく、「有罪である」の意味である。弱いキリスト信者がもし、ためらいを感じている肉を食べて、自分の良心を欺く罪を犯しても、彼がその肉を食べる者は、救いの望みがないなどとは決して言っているのではない。
アルフォードは次のように解釈する。「キリスト信者がその中に生き、動き、また、願い、望んでいる大きな要素である信仰に根ざさず、したがって、それと調和しないことは全て罪である」。信仰と言う原則から出てこないことをキリスト信者が行なうならば、それはすなわち罪なのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」