[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「キリスト教百話」
問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・4・・
ところが、彼の悲惨な状況を聞いて見舞いに来た友人たちはあまりの悲惨さにものも言えないでいましたが、ヨブが、あまりの辛さに耐えかねて「こういうつらい日に会うのなら、生まれてこなかった方が良かった」と呟くに及んで、友人たちは「君は誰にも知られないところで神様に罪を犯しているに違いない。でなければ、こんなひどい目に会わされるはずがない」とか、「君の信仰が足りないので、どれほどの苦難に耐えられるか神様が試しておられるのだ」とか、いわゆる因果論とか、教育目的論などで、ヨブの苦難の意味を解説して納得させようとしました。
しかし、ヨブには、友人たちの物分かりぶりの説得には承服できません。そういうことであるならば、ヨブには既に解決をつけておれたからです。ヨブの苦悩は「正しいものがなぜ苦しまなければならないか」が分からないことにありました。そこで彼は、神様に直接「なぜこうなのですか」と、神様の胸ぐらを掴むかのように、答えを迫りました。
これに対して神は答えるというより、矢継ぎ早の質問を発せられました。例えば「あなたはオリオン星座の形を変えることが出来るか」とか、「君が馬に力を与えることは出来るか」とか、こんにちなら「君は鰻の生態を全部知っているのか」とか「UFOの正体が確認できていないとでも言うのか」などという問いでした。
ヨブは「知りません」「分かりません」と言うしかありませんでした。これを聞いて神様は「あなたには知らないことや分かっていないことが一杯あるのではないか。そういう無知でもって、正しい人(義人)が苦しむわけを知ろうとでも言うのか、この馬鹿もん!」と一喝されました。ヨブは、これによって「分かりました」と言ったのです。
ヨブが分かったことの一つは、自分がいかに無知であるか、ということでした。そういうことの見当違いを知ったということです。それと、もっと大切なことは「この馬鹿もん!」と言われたことによって、自分のことを知っていてくださる生きた神様に出会うことが出来たことでした。これを、ヨブの「見神経験」と言います。また、ヨブを巡って展開される問題追及を「神義論」と呼んでいます。
「正しい人がなぜ苦しむのか」という問いに対して、納得できる理論が展開されたわけではありません。しかし、ヨブは満足したのです。不条理があっても、そのことが意に介することではなくなったのです。それは、不条理を負うものに対する一つの解決であるということが出来ます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」