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十戒と主の祈り・・・8・・・2 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=父と母=
第五戒③・しつけ
サムエル記上2:22~25、箴言13:1、13~14、24
祭司エリの実例を読みましたが、親が子に対するしつけのことを聖書から考えることにします。「良薬口に苦し」と言うことわざがありますが、今では、良薬が必ずしも口に苦いわけではありません。カプセルに入ったり、錠剤であったり、時には糖衣錠であったりするからです。
しつけも、ただ高圧的に、がみがみ言えば、逆効果で反発を受けることになります。そのため、知恵をもって覆い、愛をもって与えるということをしなければならないと言われます。そうでないと、ただ苦いということで、口から吐き出されてしまうことになるからです。本気でしつけをするためには愛情が必要ですから、しつけをしないということは愛が足りないことを示していると言えます。実際しつけが効果を現すのは、親の愛が知られた時です。そして、神はしつけを子供のうちにするように言われます。
「子は父の諭によって知恵を得る。不遜な者は叱責に聞き従わない」(箴言13:1)。
「鞭を控える者は自分の子を憎む者、子を愛する人は熱心に諭しを与える」(箴言13:14)。
親が、ただ口だけで、「やめなさい」、「してはいけません」と言うだけで、何もしていないのなら、それは「しつけ」をしたことになりません。
祭司エリは、祭壇で働いていた息子たちが、幕屋の入り口で仕えている女たちとの間に淫行のうわさがあるのを知らされ、そのことを諫めています。しかし、彼らは「父の声に耳を貸そうとしませんでした」(サムエル上2:25)。エリは彼らに何ら刑罰を科していません。
この結果が現れることになります。3章13~14節で、神の裁きはサムエルを通してエリに告げられました。エリは息子たちを諫めはしましたが、罰をもって咎め、悔い改めに至ることをしなかったため、エリはその罪を裁かれたのでした。息子たちは戦死し(4:11)、エリも首の骨を折って死にました(4:18)。
両親は、自分たちと子らが神との恵みの契約の中に入れられていることを喜んでいて、その喜びの中に子供たちを育てている時、子供たちもその恵みの中に入れられていることを理解するようになるでしょう。親が神を愛し、その律法を守ることを喜び、主の日に礼拝に参加することが幸せであるなら、その歩みが自由となります。嫌々ながら主に従うのであれば、そこには自由はありません。
私たちは、十戒が与えられた出エジプトという時代に生きているわけではなく、カナンという場所で生活しているわけでもありませんが、神の恵みをこのように親を通して受けていることでは、十戒が与えられた時代と同じです。
=父と母=
第五戒④・親に従う
申命記21:18~21、ルカ2:41~52
「父と母とを敬う」ということを学んでいます。出エジプト21章17節の「自分の父母を呪う者は必ず殺される」という言葉は厳しいもので、実行された例は聖書にはありません。
親の苦労は、親になってみて、子が思うように育たない時、自分も親にそうしてきたのではないかということを考える機会になります。子が思っている以上に親は子を思うものです。しかし、近年頻発する事件を思うと、変化を感じさせられます。
両親が間違ったことを子に要求した時でも、親の言葉に従わなければならないか、という問題は、理屈の上ではそれほど難しいことではありません。神の言葉に反することを求められた時、例えば、偶像を礼拝するように親に言われた時、その命令に従わないとしても、この第五戒の違反にはなりません。親の命令そのものが第二戒に違反しているからです。敬うべき親には変わりありませんが、その命令には親の権威はありません。
親を敬うということは、親に対する言葉において、態度において親に敬意を示すことです。親が話している時、静かに十分聞いたうえで、話すということもそうです。何かを与えられた時、親に感謝を言い表すことも敬意の一つです。
使徒パウロは、夫婦のどちらかが信者になり、信者でない夫か妻が、一緒にいたいと願っている場合、離縁してはならないと命じています(Ⅰコリント7:12~16)。ですから、人間関係の中で、神が恵みを与えようとしておられる事実を大事にしなければならないということになります。子が信者になった場合、未信者の親を軽蔑してはなりません。まして、信仰が親と違うからと言って、一緒に住むことが出来ないという理由にはしません。むしろ、信者になってからは、未信者の時以上に両親を敬うことが求められます。
聖書の中の二つの実例をみましょう。寡婦となったルツは自分の両親とモアブの地を捨て、これもやもめとなった義理の母ナオミの勧めを拒んで、彼女と共にユダの地に移り住みました。ナオミの神を自分も信じ、ナオミを母として敬って仕える道を選んだからでした。
読んでいただいたルカによる福音書の箇所は、12歳の時のイエスについて記されている出来事です。両親は、イエスのことを叱りました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです」。すると、イエスは両親の誤りを指摘なさいました。「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と。
しかし、少年イエスは両親の誤りを指摘しながらも、ナザレに帰り、「両親に仕えてお暮しになった」とあります。誤りを指摘しても、親を敬うことはもっと広い義務であることを教えています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」