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第92課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・48・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。・・・15:1~13・・・1・・・
15章の最初の部分において、パウロが前章において教えた教理を、適切な理論によって確証して行く。15章は少しの区切りもなく、14章の議論を継続している。
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない」(15:1)。
この説は14章の議論の要約ともいうべきものである。ある種の食物を食べることが良いか悪いかということについての疑いや躊躇によって、煩わされない強いキリスト者たちは正しい。
これに対して、煩わされている弱いキリスト者たちに与える影響を無視して自分の思うままに行動しても良いということを意味することでは決してない。食物の合法性ということに関する限りにおいては、強いキリスト者は何でも好む物を食べる権利を持っている。しかし、弱いキリスト者に与える悪い結果を考慮しないで、その権利を行使することは利己的であって、キリスト者の愛の義務を無視することになるのである。
従って、強いキリスト者は「強くない者の弱さを担うべきであって」、自らから好むところを自己中心に主張して、行動すべきではない。すなわち、キリスト者の自己否定を要請される。そしてそれが要請されるならば、自ら進んで、また喜んでそれに応じるべきである。
ある人が、そのキリスト者の兄弟たちに対する態度において誤っているのであれば、彼が食物についての問題において、たとい正しくあろうとも、何の益になろうか。弱い兄弟たちの霊的な福祉に較べるならば、ある食物を食べるという自由などは、色褪せた無意味なものなのである。
しかし、このロマ書のこの部分を通じてわかるように、次のことをよく覚えておかねばなない。その考えには弱点があり欠点があるのである。すなわち、そのような考えは、彼らがキリスト教の原理を不完全にしか把握していないことから来ているのである。
悲劇的であるのは、彼ら弱い信者が、しばしば彼らの弱点を、反対に強い点だと見てしまうことである。彼らがそれを宗教的な原理の問題だと決め込んで、それを堅持するばかりか、彼らの考えを全教会に強制しようと試みるのである。道徳的には全く問題でない事柄について迷っていない強い信者の上にも、強制しようとするのである。
私たちはここで83課の文章を再度引用してみよう。14章でパウロは、儀式律法に従わなくてはならないと考えている人々は、教会の中においては例外と見ているのである。彼はそのような弱い兄弟たちには、愛と同情と忍耐とをもって、接しなくてはならないと説いているのである。しかし、同時に、これらの兄弟たちの考えは間違っているのであり、彼らが信仰において弱いことから来ているということを明らかにしている。弱い兄弟たちの考えが間違っているのであるから、それらの考えは教会全体の上に課せられる規則や信条とされてはならないのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」