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「キリスト教百話」
問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・5・・
不条理に関するもう一つの例を上げますと、生まれつき目の見えない人について「この人がこういう運命を背負わされているのは、どういう理由があってのことか。本人のせいでこうなったのか、それとも親に何かの原因があってこうなったのか」という質問がイエスに対してなされたことがあります(ヨハネ9章参照)。
これは既に触れましたように因果論によっている発想であります。つまり、何の理由もなくて生まれつき目が見えないなんてことは考えられない。必ず原因がある、と言う考えです。ところがその解明が出来ないものですから、イエスに問うたのでした。
もちろん、こういう時に対する答えの確実性を保証することが出来るものはないのですから、この時の質問は「イエスを試してやろう」という魂胆があってのことであったと考えられます。
これに対するイエスの答えは「それは、本人の罪によるものではなく、また、親の罪によるものでもない。この人の上に、神の栄光が現れるためである」というものでした。問うた側は「えっ」と驚いたに違いありません。が、イエスは、この人の目を開かせて、見える人に変えられました。
どうしてそういうことが起こったのか、医療カルテがありませんから、そういう次元での説明は出来ませんが、この話は、因果論や不条理を超えて、神の栄光を現すに至る条件がイエスの内には備えられていたことを告げています。
こういう話をどう受け取るかということが、これを聞く側の問題であると思いますが、聖書は、先に述べたヨブのことを含めて、神は因果論や不条理を超えて、神による新しい局面を展開される方であることを告げています。
ヘレン・ケラーのように、見えなくても、見える人以上に見えた人がいることを思うにつけ、神の人間への関わりは、神の栄光を現すことが目指されているのであって、本項でここまで述べてきた「最後の審判」ということも、こういう信仰の視点によって、とらえられて良いことではないかと思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」