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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・23・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
11 名古屋地方とマカルピン・・4・・
新神学の流行、人間中心の自由主義的神学のために動揺させられた正統主義の教会は、さらに1891年(明治24)1月9日、第一高等中学校嘱託講師として歴史を担任していた内村鑑三氏が、学校に下賜された天皇署名入りの教育勅語に対して、他の教師のように最敬礼をしないで勅語礼拝を拒否したということから、非難攻撃を受け、キリスト教は日本の国体と相容れない国賊として世論の批難を受けるようになった。こうした問題もあって、当時の教会は内外からの圧迫、困難と戦わなければならない有様であった。
従って、この年1891年(明治24)から1900年(明治33)に至る10ケ年間の日本基督教会の信徒数は増加せず、教会数はむしろ減少した。ただし、伝道所数が増加しているのはミッションの伝道活動の進展を示したものと言えようが、大勢は沈滞ムードの10ケ年であったと言えよう。
それはキリスト教信仰を受容することの、どんなに困難な時代であったかを示すものあるとともに、それだけに外国宣教師たちの地方伝道は、ますます困難を加えていった。それは日本基督教会の統計表によって推測させます。
1891年(明治24)、南長老教会ミッションは、当時、新興国際都市として発展途上にあった神戸にステーションを設置した。港湾都市として海外貿易の中心であり、比較的日本の伝統に侵されていない都市として、格好の伝道地であった。従って、将来宣教師の日本伝道への基地として重要視された。
R・E・マカルピン師は名古屋にあって、県下と隣県岐阜地方に忙しく伝道し、瀬戸永泉教会では、同年11月24日、加藤梅三郎氏が長老に選ばれ、マカルピン師がその任職を執行した。
同年11月24日に中津川講義所が開設され、マカルピン師は教師の南小柿州吾氏、伝道師佐々木国之助、同加藤虎彦氏、同加藤万吉氏などの協力を得て、坂下、苗木、中津川から大井、岩村など各地をくまなく巡回して伝道された。今日、東濃地区に日本基督改革派中津川教会、同恵那教会、同多治見教会の三独立教会が存在するが、その起源には忍耐強いR・E・マカルピン師の伝道があったことを忘れてはならない。坂下、中津川地方には、初代の信徒として、安部倍次郎(洋服屋)、同人妻安部ケン、長男安部賛平、土屋勝蔵、小栗 長などR・E・マカルピン師から受洗している。
名古屋地方、尾張地方、岐阜県山間部の伝道は、マカルピン夫人にも相当の労苦と疲労を加えたのか、夫人は明治25年初夏頃、健康を害されたので、夫妻は1ケ年の休暇を得てアメリカに帰省された。
日本基督教会の統計表
明 治 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 計
教会数 73 72 72 72 71 70 71 69 71 71 -
伝道所 38 58 76 79 85 103 103 110 109 109 -
教 師 58 65 75 75 75 80 78 112 135 103 -
伝道者 88 103 113 113 115 125 113 111 108 91 -
受洗者 748 885 1296 701 494 845 683 780 758 675 7770
除名者 301 474 734 503 - 321 - 693 481 388 3795
会員数11253 10862 11118 10787 11064 11324 11131 10609 10849 11117
=写真=
中津川、王子製紙社宅伝道(前列中央マカルピン師、左は水垣清牧師(1949)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」