[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
第92課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・48・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。・・・15:1~13・・・2・・・
「わたしたちひとりびとりは、隣人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである」(15:2)。
自分を喜ばすことを主張する代わりに、他人を喜ばすことを目指すべきである。「それ自体、何が正しいか、あるいは何に同意しうるかを問うのではなく、何が兄弟たちに益となり、喜ばすことが出来るかを問うべきである」(ホッジ)。「隣り人の徳を高めるために、その益を図る」ということは、私たちの兄弟たちが得を高める、すなわち、キリスト者として成長して、真の益を受けるように、私たちが行動するということである。私たちは兄弟たちを喜ばそうと試みるだけでなく、彼らの真の福祉と信仰的霊的利益を目指し、それらを求めなくてはならない。
勿論、兄弟たちの真の徳を建てるためには、彼らの迷い・疑念に応じるよりも、彼らの間違った考えに反対することによってできる場合もあり得る。私たちはこのような場合の典型的な事例を、同労者ペテロに関してパウロがとった行為に見ることが出来る。このことはガラテヤ書2章11~16節に記されている。
さらにこの出来事がきよい食物ときよくない食物に関してのことであったことは興味深い。ペテロは最初に異邦人と共に自由に食事をしていた。しかし、後になると「割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行った」のである(ガラテヤ2:12)。このような状況の中で、パウロは決して、次のようには言わなかった。すなわち、「ペテロは異邦人と食事を共にするという問題に関しては、弱いキリスト者であった。だから彼をつまずかせないように、アンテオケにいる間は私も異邦人と共に食事をすることを控えよう。私はこのような厄介な問題については触れないようにしよう」。パウロはそのようなことは決して言わなかった。それどころか反対に、彼はペテロを衆人の面前で非難した。非難すべきことがペテロにあったからである(2:11)。
しかし、この場合のパウロとその追従者たちの霊的益になろうとするパウロの真心とに動機づけられたものがあったことを銘記しなければならない。この場合は、真理への関心のみでなく、ペテロ自身の霊的益のためには、公然たる反論と非難が必要だったのである。他の場合には、パウロは他人の霊的益のために進んで自己を否定したのであった。
私たちの行動も、常に自己中心的であってはならない。私たちの意思も行動も、常に愛に満ちていなくてはならない。しかし、特別な場合には、状況によって、他人の建徳のためとなるための方法を考えて行動することが大切なのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」