[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「キリスト教百話」
問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・6・・
キリスト教徒の中で、最初の殉教者はステファノと言われています。彼は自分の信仰を証したことによって石で撃ち殺されたのですが、それに先立って、彼は聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っているイエスとを見て「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言い、人々が石を投げ続けている間、主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」と言い、それから、ひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだあと、眠りについた、と伝えられています(使徒7:54~60参照)。
このステファノの最後は、キリストの最後によく似ています。キリストは十字架の上で「父よ、彼らをお許しください。自分は何をしているのか知らないのです」と言い(ルカ22:30)また「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と大声で叫んだあと息を引き取たれた、と記されています(同22:45)。
この二人の死に際しての共通点は、「主イエスよ」と呼び、また「父よ」と呼んでいるように時間と空間を超えた世界の実存者(霊的存在)に呼び掛けていることにあります。言うなれば、見えない永遠者との関わりに生きている、ということです。従って、その方に向かって、自分の霊を委ねることが出来たわけです。そしてまた、自分を殺す者への赦しを求めている点において、共通しています。死に際して、自分の罪を懺悔して赦しを乞う人や、また自分をひどい目に会わせた人間に対する恨みを抱いたままで終わる人もいます。
しかし、これでは、死にきれないのではないでしょうか。事実、慰霊とか供養とかということをするのは、死んだ人間の地上におけるすべての決着がついていないと思っているからではないでしょうか。この点、キリストは死を死に切っています。キリストを信じていたステファノも同様です。事のすべてが地上を越えた天との関わりにおいて清算されています。
ステファノの殉教は、言うまでもなくイエス・キリストを信じていたからのことでありますが、以上述べてきたことから言うと、これは殉教というよりも、むしろ天国に生きている人間の証しではないかと思います。
つまり、彼の死は、地上の出来事でありながら、そこには既に天と関わっており、神の国の民として生きている者であるということの証明である、ということです(もっとも、このことをそのように受け止められるかどうかという問題はありますが)。
そうだとすれば、彼の死は、地上における肉体の消滅ではあっても、霊においては、肉体の拘束を受けることなく純粋に天に帰属するものとなることへの飛躍台であった、ということが出来ます。人によっては、このことを「天国への凱旋行」といいますが、死が、そう言ってもよい内容を持っているものであるということが出来ます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」