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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・24・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
12 バラの足跡・・1・・
1892年(明治25)頃、神山にカトリックの復生病院があって、プロテスタントの信徒も患者として入院したが、信仰の相違からいろいろ問題があった。そこで信徒たちは、バラ先生やヤングメン宣教師に事情を訴えて、プロテスタントの病院の設立を願った。バラ先生たちは同情されて、アメリカで募金をし、やがて東京に病院を開設することになった。これが目黒の慰療園となったのである。
神の御心にかなうことは、一生懸命になって骨身を惜しまず奉仕されたのがバラ先生であった。
1894年(明治27)3月20日、先に記した類焼の火災にあった御殿場講義所が再建されたが、その建物は三島教会の旧講義所を解体して移築したものであった。その建物についてはバラ先生につながる興味深い話がある。
この建物は三島の酒造業であった花島兵右衛門(明治19年=1886=11月21日奥野昌綱より受洗)が入信して、家業の酒屋を廃業し、その酒蔵を改造して、階下を礼拝堂にし、階上をキリスト教主義のバラ女学校として使用した間口5間半、奥行15間の大きな建物であった。
バラ女学校というのは、1888年(明治21)から1892年(明治25)のわずか4ケ年の短い経営に終わったキリスト教主義の女学校であったが、その創立についてのいきさつは、先の花島兵右衛門がキリスト教入信後、世を益し、神の御心にかなう事業を興そうというので欧化主義の影響から盛んになった女子教育を、バラ先生と信徒の小出市兵衛が協力、後援して、校長にバラ先生の従妹のリゼ・バラさんが就任して、その名をもって薔薇(バラ)女学校と命名したものである。
教科内容は、英語、地理、歴史、生理、数学、修身と家事、聖書などで、日曜日には教会に生徒が出席するように求められた。そして明治21年1月開校し、夜学校と昼間学校の二部教育を行ったが、生徒数は20数名にすぎず、遂に経済的に経営困難となり、明治25年7月2日閉校のやむなきに至った。女子教育と伝道に、あらゆる機会をとらえて、それを実践しようとしたバラ先生の心がうかがわれる。
写真=R・E・マカルピン師の記念会 於名古屋金城教会(1950)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」