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十戒と主の祈り・・・9・・・1 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=殺人=
第六戒①・殺してはならない
創世記1:26~30
第六戒は何よりも人を殺すことについての戒めですが、それでいて多岐にわたっているため、広い内容をもった戒めです。例えば、中絶、安楽死、自殺、不注意による殺人、正当防衛、死刑、戦争などが関係してきます。こうした具体的な事柄についても学ぶ予定ですが、その前にこの戒めのより基本的なことを聖書から教えられることにしましょう。
神は生き物をお造りになりました。したがって、植物も動物もその所有者は神です。人が自分勝手に収穫したり殺したりしてはならないのは、それらの被造物は神のものだからです。
また、神が全ての被造物を造られたのは、それらによって、御自身の栄光を現されるためですから、人は祝物も動物もその目的にそって管理し、また用いられるようにする責任があります。象や鰐のような動物が力を発揮するとき、その力は神の栄光を現しますが、危害を加えることがないように管理する必要があります。小さな生き物である蟻は清掃の働きをしますが、人はその勤勉さからも学ぶべき神の知恵があることを聖書は教えています(箴言6:6~8)。
また動物が人の罪のための犠牲の供え物として用いられることからも、人は動物を勝手に殺してはならないことを教えられています。一般的に言えば、人が勝手に捕獲するために、絶滅することがないようにすることも、このイメージと関係します。アマゾンやインドネシアの森林伐採、ヨーロッパ、北米、中国大陸の煤煙による酸性雨が森林に被害を与えています。化学工場による環境汚染、原子力発電所の放射能汚染も、神が人に委ねておられる管理責任に関係してきます。良い管理によって利用と保存の両面が保たれます。
生物の中で人間だけが、神のかたちに似せて造られましたが、独特な知性、宗教性、道徳性をもっています。神は人を地上での御自分の代理人とされ、その人の内に住み、その御力をこの世で現わすことをよしとされました。他の動物は神を理解し、神の御心に従う能力が与えられていませんから、そうする責任はありませんが、人間にはあります。
わたしたちが神のかたちをもっているので、人を戒め正すことは良いことですが、人を呪うことは神を呪うことに通じますから、注意しなければなりません。殺人は、神を軽んじることになり、たとえ王であっても神ではないため、自分のために人を殺すことは罪になります。ダビデがウリヤの命を奪ったことは、神と人への罪です。ダビデは悔い改めたために、裁きは直ちに下されることはありませんでしたが、ダビデの家から剣は離れることはなくなり、争いが絶えませんでした。
人が神ではなく、神のかたちであることは、消極的には自分の分を超えないこと、積極的には隣人を敬うべきことを意味します。
第六戒②・不法な殺人
民数記35:9~29
生命の尊厳という言葉があるように、命は尊ばれるべきものです。しかし、生命は神と人とに仕えるためにあります。高齢の方々は生きてこられていることをもって奉仕します。障害の方々は生きていることが人々に励ましを与えます。
神が動物を食用とすることを許されたため、禁猟でなければ、動物を殺すことは罪になりません。為政者は剣の権能を与えられているため、戦争や死刑は時には合法的です。
しかし、第六戒は殺人を禁じています。殺人には動機の異なる場合があるため、そこまで考える必要があります。
第一は、意図的で計画的な殺人の場合です。ダビデはウリヤを戦場で部下に殺させたこと(サムエル記下11章)はこの場合ですし、アハブがナボテのぶどう畑を手に入れるために、自分の妻の悪知恵にしたがって彼を殺した場合(列王記上21章)などは明らかにこの場合です。殺した者は殺害者(murder)と呼ばれます。
第二は、意図的であっても計画的ではない場合です。ヤコブの息子のシメオンとレビが妹ディナを辱められたとして、カッとなってシケムの男たちを殺した場合(創世記34章)です。この場合も故意の殺人(voluntary manslaughter)に違いありません。
第三は、無鉄砲な殺人と呼ばれるものです。例えば、赤信号になり始めているのに交差点に入って人をはねるというような場合です。殺すようなことは考えていなかったわけですが、殺してしまう結果になったというような場合です。これを意図的ではなかったとしても無謀な殺人(involuntary manslaughter)と呼ばれます。
第四は、偶発的な殺人というものです。建設現場などで、誤って落ちてきた工具が、たまたま下に通リかかった人の頭を打って死なせたというような場合です。これは悲惨な出来事ですが、関係する作業員が殺人という罪に問われることはありません。
第六戒の「殺してはならない」という戒めは短い言葉であり、これだけでは上記のような区分を記してはいませんが、これら4つの種類をすべて含めて、「殺してはならない」と命じていると考えられます。そして、この「逃れの町」の規定は、殺した場合の動機までがすべてに問題にされていること、更に、殺人行為がエスカレートしていくことを防いでいること、そして、故意の殺人でなかったとしても、それなりの報いを受けなければならないことなどを規定していることが分かります。
殺したことの性質によって、人が罰せられず、しかも、一時的に逃れることができるようにされていることは、殺した行為が大雑把に扱われてはならないことを教えています。
人には仕返しという考えが美徳と思われていることがありますが、大きな前提は殺すことが禁じられ、神は殺人の動機も問題にしておられることを知っている必要があります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」