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第92課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・49・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。・・・15:1~13・・・1・・・
「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ、『あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった』と書いてあるとおりであった」(15:13)。
イエス・キリストは完全な非利己主義の模範であった。「キリストの模範は手本としてのみでなく、励ましとして常に私たちの前に掲げられている」(ホッジ)。
ここでキリストが手本として語られていることの中心主題は、その非利己主義である。キリストは自己を主張されたのではなく、ご自身の意志を天の父のご意志に従わせられた。彼は天の父の栄光のために自ら苦難の中を歩まれた。キリストに降りかかったそしりは、実は神へのそしりであったのだ。キリストがそれらのそしりを忍ばれたのは、父なる神のご意志と目的と、キリストご自身の意志と目的とは同一であると考えられておられたからである。
キリストの非利己中心主義について述べて、パウロは詩篇69:9を引用している。これはメシヤ預言の一つであって、メシヤとしてのイエス・キリストについて述べているものである。メシヤ詩篇として新約聖書の中に引用されている箇所はいくつかある(参照・ヨハネ2:17、15:25、19:28、使徒1:20)。
この事実は、詩篇の中にはキリストについては、何も語られていないと主張する人々が如何に間違っているかを示すものである。キリストが最高に自己中心であり、神のご意志に自らを従わせられたように、キリスト信者は、その兄弟たちの中に神のみ旨と目的とが完成されるように求めて、非利己中心的でなければならない。キリスト信者は自己の個人的なことについての配慮に勝って、他の兄弟たちの霊的福祉と教会の建徳を第一に考えねばならない。もし私たちキリスト者としての愛が本物であるならば、それは決して抽象的なものであってはならず、必ず具体的なものとなって現われるはずである。
「これまで書かれた事がらは、すべてわたしたちの教えのために書かれたものであって、それは聖書の与える忍耐と慰めによって、望みをいだかせるものである」(15:4)。「これまで書かれた事がらはすべて」という表現によって、パウロは明らかに旧約聖書全体を意味していることがわかる。
「これまで書かれた事がら」として表現されている旧約聖書は全体として(新約聖書ももちろんそうであるが)誤まりない神のみことばであって、神の啓示によって人間に救いと霊的福祉のために与えられたものである。だから私たちは聖書から忍耐を学び、慰めを受け、望みをいだかされるのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」