[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「キリスト教百話」
問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一つ釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・7・・
キリストや殉教者ステファノの例などを引き合いに出すと、ほとんどの人には縁遠い話のように受け止められかねませんが、キリストと共に十字架につけられた犯罪人が、キリストに向かって「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのに対してキリストが即座に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたし一緒に楽園にいる」と宣言された(ルカ22:39~43)ことに即して言うと、キリストがおられる楽園に共におれる者というのは、どういう人であるかに関わりなく、キリストに対して「あなたを信じます」という者でありさえすれば、その時直ちに楽園(神の国=天国)の住民に加えられる、というのである、ということなのです。
このことが非常に大切な点です。と言うのは、多くの人は自分にこだわるからです。例えば「わたしはステファノのような立派な信仰者にはなれない」とか「十字架につけられるほどの人間でもない」とか言うのです。つまり、良くも悪くも何者かとしての自分が自分の内に占めているものですから、キリストはそういう人の内へは入ろうにも入れないでおられるのです。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう」と言うのがキリストの招きというものです(ヨハネ黙示録3:20)。
自分の内側を自分で点検したり他人との比較対照で、あれこれ考えたりしている限り、キリストは、依然として外に佇んでおられるだけです。自分の中のことはどうでもよいのです。もともとこだわるほど大したものではないのです。「さあ、どうぞお入り下さい」と言うのが、キリストを信じるということです。そうすれば、先述の犯罪人ではありませんが、その途端に、信じた者は、キリストと共に楽園に住むことになるのです。
少しくどくなったかも知れませんが、ここまで書いてきたことは、「世の終わり」とか「最後の審判」ということも、今、キリストを信じているなら、そこで世の終わりも最後の審判もすべてがキリストによって「楽園住民証明書」をいただいていることによって、「問題なし」として解決済みのこととして理解すれば良い、ということになるのです。
真面目な人か、ぐうたら人間かなど問われてはいません。問題は、今、キリストを信じてキリストと共に生きる恵みに与かっているかどうかにあります。言うなれば、今と言う時が世の終わりであり最後の審判がなされているところであります。それは今と言う時が、時間と空間を越えた永遠との接点である、と言うことであるからです。
一点に立てば全体が見渡せるという場があります。今、キリストを信じて生きるなら、神による揺るがない祝福の世界に生きて、行く末も、そういう世界での展望となるに違いないでしょう。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」