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十戒と主の祈り・・・9・・・2 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=殺人=
第六戒③・その内面
詩篇139:21~24
人を殺さなければそれだけでこの戒めを守ったことにはなりません。第六戒は内面的な意味を持っているからです。人を殺す行為は、人の内側から生じる思いが行為となって外に現われたものです。そのため、 第六戒について、ウエストミンスター大教理問答の問136の答えは、「罪深い怒り、憎しみ、妬み、復讐心」の4つの動機が問題にされています。
特に説明することもないかもしれませんが、「罪深い怒り」は感情が瞬間的に爆発することで、人に対する苦々しい思いの現れです。怒りの言葉を相手に浴びせ、それは目にも表れることになります。目で人を殺すということもあり得ます。
他の人への「憎しみ」の思いは、「あの人は死んだ方が良い」と現実に思うことです。ヨハネの第一の手紙3章15節もこう記しています。「兄弟を憎む者は皆、人殺しである」。
次に「妬み」ですが、これは自分が持っていない良いものを盗みたくなる思いです。妬みは他人への攻撃心を生むだけでなく、自分自身を不安定にします。自分のもので満足することが必要ですが、パウロは、「愛は…妬まない」(Ⅰコリント13:4)と言って、愛の力を強調します。
最後に「復讐心」ですが、それは復讐する権利がないにもかかわらず、そうしようと願うことです。自分で復讐しないで、神のその権利を、判断を委ねるよう、「善をもって悪に勝ちなさい」という言葉(ローマ12:19)に従いたいものです。
これら4つの動機は合法的な場合があります。それは、詩篇139篇21~22節で言われているような場合です。すなわち、神を憎む者を憎むことや、神の民が偶像に負けたとき、神がその民に対してもつ妬みのように、私たちが誤って人を憎み、取り戻したいと願うことです。正義の怒りとか、きよい復讐心のように、神と隣人の誉れのために怒りや復讐心を持つこともあり得るからです。
しかし、現実はそんなに単純ではありません。正義の怒りと思っていても、利己心からの不義の怒りが混ざり合っていることがよくあるからです。私たちは自己の不義を隠すために正義の怒りと思っているかもしれません。そのため、それを識別するために、自己吟味が常に必要です。
それで、私たちは、神が私たちを調べ、正しい道を歩んでいるかどうか、間違った道を歩んでいないかどうか、私を調べ尽くし、迷い込んでいないかどうかを明らかにしてくださるように、祈る必要があります。この詩篇139編23~24節は、その祈りです。「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください・・・」。
最後に、主イエスは山上の説教で、さらに高い次元のこととして、殺すことを防ぐために、だれに対しても自分のできる最善のものを与える愛があることをお教えになりました。
第六戒④・自殺
士師16:23~31、ヘブル11:32、32、39
第六戒に関して、一つの実際的な問題として自殺があります。聖書には6例が記されています。ペリシテ人と共に死んだサムソン、剣に倒れ伏したサウル王と彼の部下(サムエル記上31:3~5)、アブサロムの側に寝返った策略家アフイトフエル(サムエル記下17:23)、王宮に火を放ったイスラエルの王ジムリ(列王記上16:18~19)、そして、イスカリオテのユダです。これらの人々について、聖書はサムソンとサウルについて見解を述べていますが、他の4人については事実を述べているだけです。
サムソンが自分の命を犠牲にして行った最後の行為は、ヘブライ人への手紙では、「信仰の人」の行為と言われています。しかし、サウル王の自殺は、後に歴代誌上10章14節で「主によって殺された」と見なされています。彼らの自殺は、それまでの歩みがどうであったかによって判断されることが分かります。
このように聖書にある数少ない実例から、原則になるようなことを導き出すことは難しいと思われます。さらに、時代が複雑になるにつれて、問題も複雑になります。先日、ある集まりで、尊厳死とか安楽死について話を聞く機会がありました。医師の立場に立つと、尊厳死であっても、患者を殺しているような思いになるという感想がありました。
人は神のかたちに似せて造られたために、その人が身体をもって、知と義と聖という神のかたちを発揮する使命をもっています。自分はそれを捨てることになります。そういう点で、自殺は神の創造の目的に反します。それが原則的な理解ですが、やはり現実には判断は難しいことがあります。
例えば、肉体的また精神的に病的な要素が自殺に至らせるかもしれません。その場合、何よりも治療が必要です。時には専門的なケアが必要です。孤独に対する助けを求めて自殺未遂の程度のつもりが、自殺に至ることもあります。何らかの信号が出されていた時期に、特にキリスト者として助けになることができなかったかを、後になって悔やみます。宗教改革以前、教会は自殺者の埋葬を断ったそうですが、埋葬と結び付けることは行きすぎではないでしょうか。
ドウマ教授は、キリスト教会にも自殺者があることに言及し、自殺が罪であると語られていたなら、信者は悲劇をもっと防ぐことができたのではなかったかという反省を述べています。そして誤解のないように、同教授は、自殺を正当化する理由が倫理的にないこと、また、自殺が困難から逃げるために許される道でもないことを語ります。
信者にとってはキリストが避け所であり、希望の源ですから、多くの信者が指摘するように、自分の判断ではなく、神の導きに信頼すべきであるということです。
ただし、隣人を助けるための自己犠牲として命をささげることは例外的にあり得るとされています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」