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第92課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・49・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・2・・・
「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ、『あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった』と書いてあるとおりであった」(15:13)。
私たちは、このことが聖書について何を意味しているかをよく銘記しておかなければならない。第一に、それは聖書の歴史的真理性を意味している。もし、万一、聖書が真理でないとするならば、私たちは聖書から忍耐も慰めも希望も受けることはできないのである。古の神の民に対する全能の神の力強い働きと導きの記録が、もし真実でないとすれば、私たちには何の励ましにも助けにもならない。もし旧約の大部分が、自由主義神学者たちが言うように、信頼できないものであり、歴史的に偽りであるならば、それは宗教的意義も価値も全くないことになる。
現代の新正統主義神学者たちは、聖書は歴史的には偽りであるけれども、宗教的には真理であると主張する。これらの学者たちの一人の言葉がよく引用される。「エデンの蛇が実際に語ったかどうかというようなことは重要ではない。重要なことは蛇が喋ったかではなくて、蛇が語った事柄である」という言葉である。
私たちはこのような議論、聖書に対するこのような態度を不条理な詭弁であるとして拒絶するのである。聖書は歴史的に真理でなければ、宗教的にも無価値なのである。聖書の歴史的信憑性と宗教的真理性とは引き離すことは出来ないのである。そして聖書自身が聖書は真実であると主張しているのである。
第二に、この節は聖書の有機的一体性と統一性を教えている。それは、旧約聖書は新約聖書に劣らずキリスト者に対する神の直接的なみ言葉を伝える神の言葉であると言う意味である。聖書の一部分のみかではなく全体が、私たちを教えるために書かれたものである。
極端な神学者は、聖書のある部分を他の部分から引き離してしまう。すなわち、「この約束はイスラエルに対するものであって、教会に対するものではない」とか、「この部分はイスラエル人のためであり、この部分はキリスト者に対するものである」などと言う。このような考え方は誤りである。聖書のすべての部分がすべての人々のためのものである。「なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『然り』となったからである」(Ⅱコリント1:20)。
もし、神のすべての約束がキリストにあって「然り」となったのであれば、すべての約束はキリストにあるすべての人々のためのものでなくてはならないのである。 J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」