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「キリスト教百話」
問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・8・・
ある牧師の集まりで「自殺した人はどうなるのか」と言う問題を巡って意見交換をしたことがあります。それはモーセの十戒において、神は「汝、殺すなかれ」と命じられているから、他人であろうと自分であろうと殺すものは神の御心に適わないことをしたのだから、当然、神の祝福の中には入れられない、と考えるからです。
最近はそうでもありませんが、ローマ・カトリック教会では、自殺は、「殺すなかれ」という神様の戒めに背いたことになるから神に対する罪を犯したこととして赦されず、従って自殺者の葬儀は教会では行わない、ということになってしいました。その観点から言えば妊娠中絶も胎児を殺すこととして赦されないことでした。ただし、こういうことは他者があずかり知ることができない分野のことでもありまして、そう単純明快に答えが出せるものではなく、したがって、不問とされてきた傾向が強かったと思います。しかし、そうは言うものも、何とかある答を見出したいという思いが冒頭のような問題提起となったのでした。
これについて、ある牧師は「神様の愛のみ手に委ねればよい」と言いました。すると別の牧師が「神の愛のみ手に委ねる」という時には、若干人間が自分たちに都合がよいように神様を想定してしまっているきらいがある。そういうことから言って「神の全能の御手に委ねる」という方が良いのではないか、と言いました。
この発言で大方の人は納得しました。それは、神の全能においてなされることが一番良いことだと信じられるからです。そいういうわけで、わたくしは、葬儀の司式をする時には「神様、この人のすべてをあなたの全能の御手に委ねます」とは言うものの、以上のような説明だけでは納得出来ないと言うのか、落ち着けない点がありまして、様々な質問が出されます。
例えば「そうはおっしゃいますが、亡くなった人は本当に安らかでしょうか」という質問です。こういう質問を出される人は、恐らく亡くなった人の生前の生き方を見ていて「あのままですんなりと死後の安らぎを得られるとは思えない」と考えられたことと思います。また生前やり残したことが一杯あって、無念のまま死んだ人も安らかでおられるのか、とか、特に心ならずも戦場に送られて無残の死を遂げた人も、死んだ後は安らかな境地になっているのか、などの疑問があるわけです。
それは、どこかで帳尻が合わないことには、落ち着けないからです。この点について人生の達観者の一人は「善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえにながらえることもある」と言っています。(コヘレト7:15)
こういう言葉を聞くと「それは、そうだが、だからといってそういうことで落ち着かれるか」という思いがあって、不条理には耐えがたいものが人間の中にはあるように思えます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」