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十戒と主の祈り・・・9・・・3 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=殺人=
第六戒⑤・戦争
申命記20章、黙示録22:3~5
第六戒の「殺してはならない」ことに関連して、今回は戦争のことを聖書から考えます。為政者は神から剣の権威を与えられています(ローマ13:4)。それは、国の内部から生じる悪を抑えるためであり、外部からの侵入や攻撃を防ぎ、領土と国民を守ることのためにあります。
まず、非戦論とか完全平和主義というものは聖書から導き出すことは困難です。山上の説教は、個人の自己犠牲や愛の行動を教えていますが、国として戦争を放棄することを教えているわけではありません。むしろ、聖書は神の承認のもとに、あるいは神の命令として、戦争は行うものとされています。神は戦争の具体的な方法についてまで申命記20章で教えられています。
歴史的には「正義の戦争(just war)」という考え方があり、ドウマ教授は正義の戦争の条件として、次の6点を挙げています。すなわり戦争は、①合法的な政府によるもの、②合法的な理由で③合法的な目的で④利益と犠牲を考慮した上で⑤受けた攻撃に対応した手段で⑥民間人と兵士との違いを確認して、戦われるものであるということです。
しかし、神は戦争や流血を正常なものとみておられるわけではありません。そのため、戦場で多くの人の命を失い血を流したダビデは、神殿の建設にたずさわることが許されませんでした。
これが原則となることですが、問題は第二次世界大戦で、アメリカが原子爆弾を日本の広島と長崎に投下したことによって、戦争というものの考えが、その悲惨さのゆえに大きく変えられました。例えば、その大量殺戮と後遺症のゆえに、核廃絶を主張し、単独軍縮を行ったらどうなるのでしょうか。相手国はそれを良いことにして、核の脅威をもって攻撃を仕掛け、支配の手を伸ばすことを誘発するようなことになります。
また、核兵器が持つ抑止力については、核攻撃をすれば、相手から核攻撃を受けることになって、共倒れを恐れ、この半世紀以上、核兵器は使用されることがなかったと言えます。しかし、こうした力のバランスだけで平和を維持することはできず、道徳的、政治的な制度が必要です。というのは、かりに政府が緊急に核兵器を使用したとしても、相手国が使用しないという前提がなければ、意味がありません。また、何時でも使用できる可能性がなければ、相手国の餌食になるだけで、抑止力はありません。
このように、核戦争の影響力は「正義の戦争」の概念では扱い切れないことになります。今では簡単に原爆は作られるため、核兵器を除くことができませんし、それなしには生きられなくなりました。しかし、それを使うことができないのです。そうなると、残された道は、国連のような場で、悲劇を避けるために話し合うことしかありません。それと同時に、このための最終的な解決はキリストの再臨によって、こうした危機的な状態を変えていただくしか道はありません。
第六戒⑥・死刑
使徒25:11、ローマ12:19、13:4
隣人を殺してはならないという戒めに関係して、死刑について考えてみましょう。世俗化した国、例えば、ドイツ、スイス、オランダ、デンマーク、ノルウェー、北米の幾つかの州など死刑が廃止された国もあります。聖書にみられる死刑の基本的な根拠は、人間の生命の尊厳から来ていて、「人間同士の血については、人間から人間の命を賠償として要求する」(創世記9:5)ということです。「神にかたどって造られた」人間だからです。
死刑は、この神の律法を破った殺人者が、刑罰として受けることと、殺人の罪がその犯人や関係者によって更に犯されることを防ぐためという二つの目的があります。旧約聖書には、死刑執行のケースが、偶像礼拝、安息日を聖別しないこと、良心に反抗すること、姦淫、同性愛行為なども理由となり、その多さに驚かされます。
日本では仇討というものが美談とされ、なかでも忠臣蔵は有名です。殺された者の家族や関係者が、仕返しをするということですが、それはエスカレートする危険性があります。そうなることを防ぎ、殺意がなかった場合のために、6つの「逃れの町」という制度がありました。
今ではこうした個人的な仕返しは禁じられるようになり、為政者が刑罰として行なう死刑へと移行してきました。その聖書的根拠の一つは「権威者はいたずらに剣を帯びているのではない」(ローマ13:4)ということです。そして、パウロ自身、死刑に当たるようなことをしているのであれば、死を免れようとは思わない、と述べて、死刑の正当性を認めています(使徒25:11)。宗教改革の時代に、個人でもなく、為政者でもなく、ローマ教会が教会裁判によって、プロテスタントを処刑したことがヨーロッパには非常に多くあったことがよく知られています。
人権運動家たちは、アメリカでの死刑廃止や中絶禁止の運動に熱心ですが、アメリカでの暴力による死の人口比はなんとヨーロッパの20倍だそうです(M・ホートン『全き自由の律法』155頁)。
また、神学者のカール・バルトは、キリストのゆえに、神はすべての人と和解したのであるから、死刑はすべきではない、という考えです。しかし、ドウマ教授は、神が人の業に応じて報いられる(マタイ16:27など)のであり、人は個人的に復讐してはならないが、神が報復する(ローマ12:19など)ので、バルトの主張は誤っていると述べています(「十戒」237頁)。
これらのことから、神は死刑という制度を今も認めておられると考えられます。ただ注意しなければならないことは、旧約聖書の時代のイスラエルが、現在のイスラエルと違って、神の民として、社会的にも宗教的にも特別に清い状態を求められていたために、多くの死刑がある厳しい刑の適用が必要であったと考えられます。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」