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「小閑記」
もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、
わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
=へブル3:14=
すべてのキリスト者は、自分の人生が罪深く汚れている時のこと知っております。私たちには取り返しはできません。なされたことは、なされたことで、それをどうすることもできません。もし、私たちがあらゆる努力をしたあげく、最後の望みも絶えた時、目に見えない手が、私たちの目を自分中心からそらせ、罪人を救われるかたの方へと向けさせてくださったとするなら、何と幸いなことでしょう。
美しい春の朝に、小鳥が歌うように、私たちは全く、自由な救いについて歌ったのです。この時、私たちに最初に確信が与えられ、それが一日の日課の、そして最後までしっかりと持ち続けようと奨める大切さを、このみ言葉は教えているのであります。しかし、私たち一人一人の人生は、このことは言いやすいけれども、為しがたいことをも教えてくれます。私たちが実際にある自己、また、罪深い偽りの自己から全く離れて、すべてのものをイエスのみの中に持つこと、これはキリスト教の高峰であって、神の恵みを他にしては、何人も手にすることのできないものであります。
私たちの悪の本質と人間的な理性は、絶えず私たちを汚れた罪深い自己・自分へ引き戻そうとし、知らず知らず、キリストよりも自らのキリスト教により頼む結果となりやすいのです。こうなれば、主を仰ぐべき時に自己を見て、結果としては、疑い、憂い、そうして平和を失うのです。私たちが喜ばしく、善良に、霊的になっている時は、すべて良しと感じます。しかし、心が冷淡で悪意を持つ時、神を疑い、信仰は萎えるのです。これは最初の信仰をしっかり持っている姿ではありません。これはキリストを信じるよりも、自分を信じることにあります。
主のみが、常に、私たちの救いを全うしてくださるのです。
わが手のわざは、主のおきての求めにかなうまじ。
わが熱心はためらわず、わが涙は、とこしえに流るるとも、
罪をあがなうことを得し。主よ、主にのみ救いあり。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」