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第93課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・50・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・3・・・
「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ、『あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった』と書いてあるとおりであった」(15:13)。
第三に、ここの節は、私たちが熱心な聖書の学習者でなければならないことを教える。もし聖書がすべて私たちのための書かれたのであれば私たちはそれを学ぶのに常に熱心でなくてはならない。聖書は怠け者の書物ではない。私たちはそれを一日に数分間読んだり、あるいは1週間に数分間読んだりするだけのことでは、それから多くのものを得ようと期待することはできないのである。
もし私たちが聖書の勉強から多くのことを学ぼうと思うのであれば、その中へあるものを入れなくてはならない。すなわち、時間と努力と熱心と思索を注ぎ込まなければならないのである。私たちが直接霊感を受けたいなどという願望を退けて、聖書の中に記されている事柄を学ぶことによって、いくらかの大切な知識を獲得するように熱心につとめるべきである。私たちは知的真空の中では真の霊感を持つことは決してできないのである。
この節にある「のぞみ」は、もちろん、キリスト教的意味における「のぞみ」である。この世的な野心の対象、富や名誉を入手することを意味するものではない。キリストが私たちのために獲得してくださった全ての祝福を必ず受け取るという確かな確信を意味している。キリスト者の希望というのは、この世における生涯の間に、神の善い恵みを私たちに注がれ、永遠の神の家に住まうことができるという確かな確信である。そして、それは私たちが罪とその結果、すなわち、咎と腐敗、罪の力と悲惨から完全に贖われると言う確信である。積極面から言えば、永遠の栄光におけるキリストとの交わりを意味する。これこそが、私たちが忍耐深く聖書の中にある事柄を学ぶことによって、到達することができる「のぞみ」「希望」なのである。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」