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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・27・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
13 20世紀に入る ・・1・・
この年、1901年(明治34)は20世紀に入った年として、日本基督教会は前年の第13回大会の決議よって、全国に特別巡回伝道を行って、大いに教勢の拡張をはかった。名古屋地方ではそのため6月13日~19日まで1週間、大挙特別伝道を行って、さらに豊橋、岡崎、瀬戸、岐阜、大垣、竹ヶ鼻、大藪、太田、岩村、大井、関、兼山、御嵩、黒川の各地を巡回伝道した。
以上は主に南長老教会ミッションの伝道地とあって、大会派遣の教師笹倉弥吉、大儀見元一郎とR・E・マカルピン宣教師と他に大石憲英、小山田、宇野、八幡、中田、奥平浩の諸伝道者たちである。当時の浪花中会は、日本基督教会中の最大中会で伝道地も多く、南長老教会ミッションの伝道もよく行われて、日本基督教会の統計によると、1900年(明治33)の受洗者統計675に対して、この年の特別伝道などにより、受洗者は1182名となっている。
宣教師の日本伝道は、ただ福音を宣べつたえるというだけでなく、力の弱い信徒たちの協力者となって集会場を設置したり、講義所の土地建物の購入、礼拝所、会堂の設立という問題が付いて廻った。それは各伝道地の要求するところであり、また希望でもあっただけに、その資金、財政上の労苦も大変なものであった。
名古屋の金城教会の前身相生町講義所時代十数名の信徒と会堂建築の資金を得るために、マカルピン師は援助と努力を払われて、その会計保管の仕事まで依託された。またバラ先生もこれに資金を寄付されて教会は相生町(名古屋)より飯田町へ、さらに堅代官町の金城教会へと発展した。
当時の日本は、まだ道徳、習慣、衛生などには未開で不衛生な面が多くあった。マカルピン師の子供たちが、日本の子供と遊んだり交際するとき、悪い言葉や不行儀なことを習ってきたり、皮膚病(タムシ)などに感染してなかなか治ることが難しく、マカルピン師夫妻を悩ませたことも異郷日本に生活する宣教師としての負い目であった。
2月15日、マカルピン夫人は最後(7人目)の女子を出産した。「北川医師は、またため息をついて『やはりまた女のお子さんです』と言った。しかし私たちは喜びました」とマカルピン師はその回想録に記している。全てが神の御心であると感謝されたのである。この年の夏、マカルピン師は帰米し、バージニア州の歴史的な町フレデリックスブルクで長男のクリスビーと共に過ごされ再び帰日した。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」