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十戒と主の祈り・・・9・・・4 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=殺人=
第六戒⑦・中絶
出エジプト記2:22~25
第六戒の最後として中絶という問題を考えることにします。日本では古くから貧しさや子は親のものという思いから、子が犠牲にされてきました。15年程も前の北米の厚生省の統計ですが、合法的中絶の件数が訳130万、その妊娠8週までが約50%、10週までを加えると約77%となっています。日本の統計はどうでしょうか。
人が誤って妊婦を流産させた場合の償いについて、エスカレートしないために、主なる神がモーセに与えられた掟がこの出エジプト記21章の言葉です。カルヴァンはこの個所を注解して、こう述べています。
「・・・フエタス(9週間以後の胎児)は、母の胎内にあって、すでに人間であり、まだ享受し始めていないその命を奪うことは、恐るべき罪である。野外にいるときよりも、逃れの場所である家の中に侵入して命を奪うことのほうがいっそう凶悪であるから、その胎児が光を見る前に、胎内で破壊することは、いっそう残酷と見なされるべきである」。
胎芽から胎児になるのが2か月前後のようですが、中絶として問題になるのは胎児の段階になってからことのようです。中絶がやむをえないとされるのは、妊娠が、そして出産が母体を肉体的に命の危険にさらすことになる場合です。いわゆる医学的理由から出産の道がないと判断される場合です。
医学的な技術が発展している国々では、出産に当たって何らかの安全策が講じられることが出来るでしょうが、それでも危険な場合があります。どちらか一方の命を守るということになる場合は、当然母体を守りますから、中絶は正当化されます。
さらに母体の精神的な問題もあります。その場合の判断は肉体的な場合に比べて難しいものと考えられます。家族や医師の支えが出産を可能にするかもしれませんが、これは難しい問題で、この可能性を排除することは出来ません。
優生学上の理由から、障害のある子の誕生もある程度前もってわかる場合があるために、問題になることがあります。しかし、ドウマ教授は国の法律がどうであれ、実行するのは「神の法」の重い咎めを受けることになると言います。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」