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「キリスト教百話」
問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。
答・・10・・
ある仏式の法要が行われた後で、読経を司られた曹洞宗の僧侶が「人間は死んだら皆仏(ほとけ)になるのです」といわれたものですから、「では地獄に落ちるなどということはないのですか、「往生要集」には随分地獄のことが詳しく書いてありますが…」とお聞きしましたら「それは人間が悪いことをしないように勧めるための話でありまして死ねばみんな仏になるのです」という答えでした。
「往生要集」を書いた源信という人は浄土宗の人ですから、曹洞宗の人との地獄についての説明の仕方が違うかもしれませんが、「死んだ人はみんな仏になる」という死後理解については、大変興味深くお聞きしました。そして、テレビなどで、死体を前にして警察官が「仏さんの身元は確認されているか」など言い交しているのも、まんざら理由のないことではないなあと思ったことでした。そして、そうであれば、読経は以上のことの確認を告げていることとして有り難いことだろうと思いました。
それと、A級戦犯を靖国神社に祀ったことが問題にされている中で、ある人が「日本人は、戦犯であろうとなかろうと、人間は死んだらみんな神になるのだから、戦犯であったかどうかなどは全く問題にならない」と言っておられるのを聞いたことがあります。そして「死んだ人にまで恨みを抱き続ける外国人には、日本人のこういう心は分からないだろうなあ」と言われましたので「そうなれば生前何を行いどう生きたかなんてことは一切問題にならないということになるが、それでよいのかなあ」と思いました。「人の生涯は棺の蓋を覆うた後でわかる」と言われていることの真実性は承認しましたが、「死者に鞭打ってはならない」と戒められていることは、生前の人物評価はあってよいとするも、死後のことは死の彼方を支配される方にゆだねるべきであって、生きている人間が与り知ることができない死後世界のことにまで介入してはならないし、そういうことができるものではない、という宣言であろうと思います。
そうであれば、死後のことは、永遠の支配者であられる神に委ねればよろしいし、この点についてあれやこれや思い煩うことはなかろうと思います。が、死者はすべて仏になり神になるというのは、聖書が告げているのとは違うという思いを禁じ得ません。
聖書によって示される神は「全能の神」であられますから、この方に委ねることが、神を信じるということの具体的表明であろうと思います。わたくしたちの間では「冥福を祈る」とか「慰霊」とかいう言葉が、何の違和感もなくごく普通に語られています。西欧では「鎮魂曲」という音楽がありますが、これらのことをせざるを得ない心情には共感し同情はするものの、全能の神がおられないかのように振る舞うことは、神への不信という逸脱行為になるのではないかと思います。
死後の世界の展望は、聖書にはさまざまに述べられておりますが、それは神のご支配の豊かさを示すものとして受け止めたいものであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
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「緑のまきば」
「聖霊とその働き」