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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・28・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
13 20世紀に・・2・・
1904年(明治37)、マカルピン師42歳のとき、津島に伝道したとき、後年、金城経学院院長になった市村與市氏を仏教徒からキリスト者に回心させた話がある。
「市村先生は金城教会の長老として永く忠実に奉仕された。先生は仏教主義の哲学館を出られ、仏教徒としての生活も青年時代になさったのであるが、愛知三中に在籍中の1904年(明治37)頃、名古屋地方に伝道中のR・E・マカルピン師に導かれのがキリスト教を求道するきっいかけであった。
先生は求道の初めの頃のことを、こう述懐しておられる。
『明治37年頃、マカルピン師は伝道師松本顕二氏と共に津島に伝道せられて、片山正吉氏の宅に於いて初めて同師に面会した。其時同師は〝人は皆罪人である″と云われたことがどうしても私の腑に落ちないのであるが、同師は寛容と愛とを以ておもむろに私を導いて今日に至らしめて下さたのであった…』。
其の後先生は熱心に求道されて、ついに1910年(明治43)の3月に、吉川逸之助牧師によって受洗された」(市村與市先生113頁)。
市村氏が金城学院に終生奉職されたのにも、こうしたマカルピン師との深い関係があってのことであろう。
この年の2月20日、日本はロシアと戦争状態に入って国内は緊張し、耐乏生活が続いた。マカルピン師の身辺にも、また人知れぬ悩みがあった。それは一粒種の長男クリスビー君が虚弱で、日本での風土に合わず、米国のノースカロライナ州のトリヨンの病院に入院加療中であった。しかし、よくじつ翌1905年(明治38)9月14日には、次男のジェームス・オーガスチン・マカルピン君が名古屋市白壁町の宣教師館で出生して、マカルピン夫妻を喜ばせた。しかし、難産で夫人は余病を併発して生死の危機に立たされたが、主の憐みによってふたたび恢復された。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」