[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
十戒と主の祈り・・・10・・・
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=姦淫=
第七戒①・罪の性質
申命記22:22~27
「姦淫してはならない」という第七戒に入ります。どういう場合に姦淫と見なされるかと言いますと、一般にイスラエルでは結婚している女性、あるいは婚約している女性との性的関係だけが姦淫とされていました。それは男の重婚がなされていたからだと考えられます。
例えば、ユダは、死んだ長男エルの嫁のタマルに、二男にオナンを与えましたが、彼も死んでしまい、三男のシエラはまだ若いということで、与えませんでした。そこでタマルは、義父のユダが近くの町に来ることを聞いて、顔をおおい神殿娼婦のみなりをして、ユダと姦淫しました。その時、ユダは後に一頭の羊を与える約束をしましたが、その交換の品としてユダの印章と杖とを前もって求め、それをもったまま姿を消しました。やがてタマルが子を宿し三ケ月になるということがユダの耳に入りました。
ユダは彼女を焼き殺すように命じます。しかし、タマルが使いに証拠の品を送り届けさせると、ユダは自分が彼女に三男シエラを与えなかったので、タマルが正しいことを認めました。しかし、タマルはやもめであったため、ユダへの罰は考えられていません。
他人の女奴隷との性交は盗みとして、弁償が求められるだけ(レビ19:20~21)ですが、姦淫の場合の罰は、このように死刑でした。申命記22章23~27節には、その刑罰の原則が記されています。
男が婚約中の女と姦淫した現場を発見された場合は、二人とも石打の刑に処せられ、婚約中の女が助けを求めることができない場所で強姦された場合は、男だけが死刑になるとなっています。
旧約聖書で、偶像礼拝は比喩的にしばしば姦淫と呼ばれています(エレミヤ3:8~9、エゼキエル25:37など多数)。主なる神は、イスラエルが偶像礼拝者になることを御自分に対する姦淫と呼んで、特に嫌われました。そして決してお許しになりませんでした。
偶像礼拝はイスラエルの神が持っている神との関係を破壊し、かつ神の名誉を著しく傷つけることになるからです。カルメル山に集まったバアルの450人の預言者たちをエリヤが殺しても問題にならなかったのはそのためです。
こうしたことから言えることは、姦淫の罪は、盗みという第8戒の違反とは別のものであり、結婚や婚約した者たちだけにある関係と名誉とを破壊する罪(箴言6:34~35)、そして自分自身の結婚の関係を破壊する罪だということです。しかも配偶者への不誠実だけでなく、神との契約への不誠実でもあります。夫婦が互いに疑うということ自体がこの契約を軽んじていることから生じます。その原因は、クリスチャンも知らず知らずに世俗主義に影響されて、神との契約の民であることを忘れるですから、注意しなければなりません。
第七戒②・戒めの範囲
レビ記18:6~20
第七戒を考えるためには、人間の創造と結婚の制度を視野に入れなければなりませんが、それは次回から学ぶことにします。また、主イエスが山上の説教(マタイ5:17、28)で教えておられますように、罪は姦淫の行為だけでなく、その精神面にまで及ぶことが教えられていますが(ウエストミンスター小教理問71、72参照)、前回に続いて、まず、この第七戒が罪であるとしている人間関係の範囲について聖書から知っておく必要があります。
レビ記18章を読んでいただいて分かりますように、このような家庭関係についての一連の戒めがあります。それは血のつながりのある近親者だけでなく、その関係のない義理の関係であっても問題にされます。家族関係という秩序を破壊することになるからです。こうした禁止の命令があるということは、この時の近隣の異教の国々にこうしたことが存在していたことを意味すると共に、イスラエルの民がその影響を受ける可能性があったためであろうと考えられます。
22節には同性愛の禁止が記されています。この問題は、20世紀末から欧米の主流の改革派、長老派教会においても、教派を二分する原因となっている事柄ですから、別に改めて検討することにします。2003年6月に開催されたアメリカ合衆国長老教会(PCUSA)の第215回の総会では、投票はされませんでしたが(これまで数度総会で可決され、3分2以上の中会の承認が得られず否決)、同性愛者、両性愛者、性転換者の教職任職の提案が将来再び出されることになりました。
さて、姦淫は結婚関係に対する一つの罪ですが、結婚関係にない者との淫行、売春・買春についてはどうなのでしょうか。旧約聖書は、ユダと嫁のタマルのこと、サムソンとガザの遊女のこと(士師記16:1)、エリコの遊女ラハブのこと(ヨシュア記2章)、ソロモンの裁きを受けた二人の女のこと(列王上3:16~27)などから、イスラエルには明らかに遊女がいたわけです。このことから聖書は売春を一見、大目に見ているように見えますが、その女に夫があるか否かによって違い、夫がある場合、その夫に殺されることもあることを記しています(箴言7:19~27)。しかし、だからと言って、結婚していなければ問題がないとされたわけではありません。処女であることxが結婚の条件であったからです(申命記22:13~21)。
しかし、キリストによる贖いの恵みを与えられてからは、信仰者はキリストのものとされたことから、その体はキリストに買い取られた聖霊の宮です。そのため不道徳から離れなければなりません。エルサレム会議は、異邦人教会の信者たちには割礼を求めないことを決めましたが、偶像礼拝と共に、「みだらな行い」(使徒5:20.29)である不品行を避けることを命じました。キリストの教会である信仰者はキリストの花嫁だからです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」