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「小閑記」
夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。・・・イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。
=ヨハネ21:4,7=
この情景は実に不思議です(21章全体をお読みください)。イエスが来られた夜に、数人の弟子たちが漁船に乗り組んでおりましたが、ペテロのみが主と認めました。このことはどういうことかを考えてみましょう。
「多忙と期待外れ」は、時に大切なことから遠ざけさせます。イエスだとわからなかったペテロとその他の者たちは、彼らが出会ってきた失敗でその心がいっぱいであったこと、彼らの魂はすっかり、悲しみと不平と疑いのとりこになり、イエスのお姿はその霞の中に隠れてしまっていたこと、彼らは失望で取り乱して、他のことなど、見ることも聞くこともできなかったことなどが考えらます。
しかし、ペテロはイエスを忘れることはありませんでした。内的な眼で主を明らかに見たのです。ペテロは愛していたお方を忘れることができませんでした。それで、み声を聞いて、主が岸に立っていられるのを見た時、彼の思いと心の中に生きている方である主を認めたのでした。
もしも、それまでの心がこの世的なことばかりで満ち溢れ、イエス以外のものでいっぱいになっている人々は、主が来られて助けようとなさっても、容易に主のみ声を聴き、また主(救い主)と認めることができないのではないでしょうか。
神様とは異質のもので私たちの心が満たされていると、主を見ても、主と認める私たちの能力は、弱められるのです。
しかし、それぞれの方が歩まれる人生の戦いにおいても、その心と思いを、イエス・キリストの中に保つことのできる人は、主のみ声を聞き、悲しみや困難にあっても忙しい世にあっても、主を認めることはできるのです。私たちの当り前の、日常の生活の中でも、救い主のみ声を聞き、お目にかかることを願い続ける歩みでありたいものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」