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第94課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・52・・・
G キリストの非利己的な態度を見習うことが、すべてのキリスト者の義務である。
・・・15:1~13・・・2・・・
「こういうわけで、キリストもわたしたちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」(15:7)
ここでパウロはローマ教会の人々に、相互の交わりを勧めている。「受け入れる」という意味は、キリスト者の交わりに受け入れることである。教会の中にあって、あの兄弟やグループとの交わりを拒否するような個人やグループがあってはならないのである。このような相互の交わりはキリスト者の義務であることは明らかなことである。
しかし、現代の諸教会において、この義務が如何に無視されていることであろうか。キリスト者の交わりが、自己中心主義の愚かな心を持った一部の人々によって、如何に破壊されていることであろうか。時として教会の中のある人々に語り掛けようとしない。そして、語るときでも、むしろ沈黙している方が良いほどに冷たく形式的で、小馬鹿にしたような態度で話すのである。このような行動は、ここで教えられている「互いに受け入れよ」という命令にもとることであると言わねばならない。
パウロはここで、何故、キリスト者は互いに受け入れなければならないかについて、二つの理由を述べている。
第一の理由は、キリストが私たちを受け入れてくださったからである。私たちの救い主キリストは、その大いなる愛と憐みとによって、罪人である私たちを御自身の民として受け入れてくださったのである。この驚くべき恵みに与かっている私たちは、やはりキリストが受け入れてられる兄弟たちを受け入れることを拒むことは考えられない。もしキリストが私たちを受け入れてくださっているのなら、私たちも互いに受け入れ合わなければならないのである。
第二の理由は、私たちが互いに受け入れるべきことを神の栄光が要求しているからである。内紛や党派抗争によって分裂している教会は、決して神の栄光を現わすことはできないのである。いくらかの意見や見解の相違は避けることが出来ないであろう。しかし、神の栄光を現わそうと願うのであるならば、少なくともお互いの間に親切な思いやりのある友情的な気持ちがなければならないのである。
もし憎みや争いがあるならば、神の御霊を悲しませるのであって、神の栄光を現わすことはできず、むしろ栄光を傷つけるのである。「祭壇に供え物を捧げようとする場合、兄弟が自分に対してなにか恨みをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」(マタイ5:23,24)。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」