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十戒と主の祈り・・・11・・・ 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=姦淫=
第七戒③・男と女
エフェ5:21~33
神が定めてくださった結婚という制度を考えた上で、その制度との関係でこの第七戒を検討する必要があります。
神が人間をお造りになった時、男と女に造られました(創世記1:27)。それ以来、この世に生まれた人は男か女のいずれかでした。人は初めから男か女かの違いがあることを経験してきました。しかし、初めから人類には男か女の違いがあるということについて、一致があったわけではありません。ドウマ教授によると、ギリシャの哲学者プラトン(紀元前4世紀中頃)は、人間が最初に造られた時、「アンドロジヌス」(両性)、つまり男であり・女でもあるように造られたと言ったそうです。この両性とは、男女の要素の完全な統一を具現化した者ということです。
しかし、神々からの刑罰がこの両性に臨み、その結果、二つに分裂し、今では人は男と女のいずれかになったと言います。この分裂以後、休息を失った人間の愛は、失われた統一を求めて終わりのない追及をしている、というのです。
この考えに立って、フランス人のエリサベツ・バドアンターという人が、人類の変遷を、第一に、互いに相手を必要とした自己と他の共存の時代、第二に、他を必要としない自己の時代、聖書の人間創造の時代は、女性を抑圧した父なる神の時代、そして第三に、今では自己は他であろうとする時代、他に自己を求める時代になっていると言います。つまり、男と女の違いが去って行く時代であると言います。
同性愛(homosexuality)とか両性愛(bisexuality)が生じているのはそのためで、聖書が規定しているような性ではなくなったことを示すと言います。
そして、人間が男女として振る舞うのは、人間が内在的にもっている方向から来るのではなく、生育(nurture)から来ると言い、子供たちが男として、或いは女として振る舞うように養育することから生じるのであって、男女のいずれかであるのでなく、男か女のいずれかになるのである、と主張します。この考え方が、フェミニストが聖書の神を男性名詞だけでなく、女性名詞でも表現することを主張するようになる根拠のようです。
わたしたちは、男女の違いが、神の意図から生まれたものであって、その後の歴史に見られる堕落や罪の刑罰や悲惨の中から生まれたものでないことを知っています。神は6日目に人を男と女に造られた時、その日のことを振り返って、「はなはだ良かった」と判断しておられるからです」(創世記1:31)。
創造の時に意図された男女の平等という理想的な関係は、罪によって破壊されましたが、キリストにある神の恵みによって回復されます。新しい調和ある関係は、夫としてのキリストと花嫁としての教会の関係から導き出されます。この調和の中にもある種の秩序があります。キリストがこの教会の頭であるように、最初に造られたアダムがエバの頭でした。彼らは一緒に世を治めます。女性の役割は仕えることよりも常に多くを含んでいます。
第七戒④・人工授精
創世記1:28
「姦淫してはならない」という戒めと関連性のあるものとして、家族計画、人工授精、そして、試験管ベビーなどのような現実の問題がありますので考えておきましょう。
特にヨーロッパのような少子化先進国に急速に近づいた日本では、結婚しない、結婚しても子供は産まない家庭が急増していることが統計に現れています。それが高齢化社会となって現れてきているのは、社会全体の責任であり、子を育てる家庭にのみ負担を求めるような状況が、手当や税金などの面で改善される必要があります。そうしたことに努力してきたヨーロッパは回復の兆しが見え始めているようです。
同じように「産めよ、増えよ」(創世記1:22)と神の命令を受けた動物とは違って、人間には長い期間にわたって養育するという任務があるため、家族計画が必要になります。そのため避妊ということも合法的であると言えます。
姦淫という視点から、卵子の受精や受精卵の定着に障害があるため、前者のための人工授精(artificial insemination)や後者のための試験管ベビー(in vitro fertilization)というような技術について、ドウマ教授のテキストを参考に考えてみます。
普通、人工授精とは、対外で人工授精を行って、受精卵を妻の子宮に戻すことです。この場合、夫の精子と受精するAIHとよばれるものと、第三者の精子提供者の精子と受精するAIDと呼ばれるものとがあります。結婚は夫と妻の排他的な霊的または肉体的な関係ですから、AIDは明らかに合法的です。しかし、第三者の精子の提供をうけておこなわれるAIDは、この第七戒に触れることになります、精子は単なる「もの」に過ぎないという反論がありますが、輸血や臓器移植の血や臓器は「もの」とは言えても、精子の場合はそのように言うことができないのは明らかです。
次に、妻の子宮が受精し定着できない場合の対策として、行われているものに、妻の代理として、第三者の女性の子宮を借りて、胎芽に成長させ、出産に至るという方法(IVF)です。
この方法が夫婦の受精卵による妊娠ということから、この第七戒に違反することはありませんが、4つの条件を満たさなければならないということです。その第一は、この受精卵が女性とその夫によるものでなければならないということです。つまり第三者の卵子や精子を用いるものであってはならないということです。第二の条件は、その胎芽は卵子の持ち主である妻の子宮に植え付けさせなければならないということです。さらに、第三の条件として、受精した卵子はすべて妻の子宮に植え付けられなければならないということです。一個だけを用いて、他を廃棄したり、実験用に用いたりしてはならないということです。そして、第四は、胎芽は最適の時に速やかに子宮に植え付けられなければならないということです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」