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「小閑記」
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。
繰り返して言うが、喜びなさい。
=ピリピ4:4=
テレビの画面には空の商品棚とここの商品は売り切れましたという張り紙、その横にトイレットペーパーを抱えきれないほど持っている人の後ろ姿が写っていました。しかし、その後ろ姿には、喜びも安堵の気持ちもありませんでした。何とも虚しい気持ちになりましたが、これは日本だけのことではなく世界の各地にある姿です。
「主にあって喜ぶ」とは、必ずしも幸福に感じることと同じではありません。聖書は、私たちが常に喜ぶように勧めていますが、自己満足とは違います。また悲しみや人の痛みを感じ共に涙することも「喜び」と言います。ただあの抱えきれないトイレットペーパーを手に入れた束の間の喜びでないことだけは確かです。主にあって喜ぶということは、それとは本質的に異なることのようです。
私たち一人ひとり、悲しみや、不幸や、悩みに耐えている現実の中にあっても、主にある喜びを失っていることの証拠ではありません。かえって、しばしば最も大きな悲しみに耐えている時こそ、主にある喜びは最も完全であり、深く強いものでもあり得るのです。強がりや言葉でのことではありません。私たちは、深い悲しみや不幸にあるとき、私たちは最も愛する人の元に行くのではないでしょうか。聖書の中に、人は「泣くものと共に泣き、喜びを分かち合うところに、喜ぶこと」を学んでいます。
人が最も苦しむとき、不思議ですが互いに労わり、励まし合う者です。キリスト者として神のみ心に最も近づくとき、キリストの思いとなり、キリストに喜ばれることを探し、行動へと進むのです。心がこの世を愛している時、口で歓声をあげることは出来ます。しかし、悲しみが訪れている時、主にある喜びがもっとも大いなることを知っていることは、何と幸いなことでしょう。
<538>
1 過ぎゆくこの世 朽ち行くわが身
何をかたのまん 十字架にすがる。
2 ながくもとめし 罪のゆるしを
したしく主より きくぞ嬉しき。
3 古きわが身は 十字架に死にて
あらたに生くる 身とぞなりける。
4 時もたからも この身も霊も、
みな主のものと みまえに献げん。
5 主にある我は よろこびあふれ、
代々みさかえは 主にとぞ歌わん。 アーメン
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」