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「キリスト教百話」
問28 キリスト教は、大きく分ければカトリック教会とプロテスタント教会になると思いますが、どうちがうでしょうか。
答・・1・・
わたくしは最初に行った教会がプロテスタント教会でしたからその信徒になったのでありまして、最初にカトリック教会い行っていたならその信徒になっていたかも知れません。その場合、そのどちらの信徒になっていたとしても、イエスを「神の子、キリスト(救い主)」と信じる点において変わりはありませんから、信仰の基本においての違いはないと思っています。ただプロテスタント教会が生まれてきた理由と、今日までの双方の歩みを考えてみると、違いがあることは否めません。それを一言で言えば「権威の所在」ということになろうかと思います。
「権威の所在」などという言葉を聞きますと、何か難しい問題のようになるかもしれませんが、ことは極めて単純でありまして、「あなたのキリストに対する信仰はそれでよろしい」ということを、誰が、また何が決めるのか、ということであります。「教皇(法王)」が権威の担い手であります。勿論、そうは言っても、教皇個人が自分の意志によって教皇の座についているわけではなく、選挙によって選ばれるわけですから、公(おおやけ)に認められ、またそこに神の意志があると信じる信仰によってのことでありますが、いずれにしてしても、教皇によって代表され担わされている権威が信仰と教会に関することを決定する権威であるわけです。全世界にあるローマ・カトリック教会は、全てこの権威の下にあります。
ところが、この権威のもとでなされていることに疑念を抱いた人たちがいました。それがマルチン・ルターなど宗教改革者と呼ばれるに至った人たちでした。例えばルターは、当時聖ペトロ教会建築の資金を集めるために「免罪符」を販売することが教皇の許可の下に行われていたのに対して、「免罪符を買うことによって罪が赦されることになるのか?」という疑問を抱いたのでした。それで聖書をよく調べたところ、そこで発見したことは「罪の赦しはイエス・キリストを信じる信仰によって与えられるものであって、免罪符を買うとか、そのほか人間が考え出した様々な修行などによるものでない」ということでした。
それは、言い換えれば免罪符発行を許可した教皇を否定したことになりますから、彼は、この権威に従わないものとして破門されました。
以上のことから分かりますように、ルターは、信仰とは何かを決定づける根拠となす権威は教皇ではなく、聖書にあると主張したわけです。信仰と教会の拠って立つところはどこにあるか、ということが問われた結果です。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」