[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・32・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
14 愛児の死
1907年(明治41)はR・Eマカルピン師にとって悲痛な出来事の年であった。
『1907年6月7日の聖日、早朝自転車で12哩の瀬戸まで行き、午前中は教会の説教、午後は路傍伝道説教、そして夕拝の説教を終えて月明かりの中を家路についた。山積みになった手紙の中に病気中の私たちの息子クリスビーについての1通の手紙があった。それは、彼は長く生きられないであろうという文面であった。クリスビーは結核のため一年間治療をして、一時は回復の徴候を見せたのだが、冬の間に恐ろしい病気が彼の内臓を犯し、最早すべての望みは消えようとしている、と言うことであった。私たちの思いはノースカロライナ州トリヨンの病院に横たわる彼のところに向けられ、唯、「主の御こころのままに」と祈るよりほかにありませんでした。
次の日から彼へ、また彼についての手紙を書くことで一杯でした。それは最早私たちが彼のところに赴いても間に合わないと思ったからです。そして6月21日の夜明け、昨夜の激しい暴風雨がすっかり晴れ上がった美しい聖日、私たちは朝の祈りを終えると、「電報」と言う呼び声を耳にしました。そして私たちは外電のメッセージ「クリスビー シス イーブリン」に、こうなることの心の準備はしていたものの、矢張り私たちの感情は悲しみの淵に打ちひしがれてしまいました。
朝の礼拝中、冷静を保っていましたが、日本の方々の悔やみの言葉を受けると共に、私の心は悲しみで一杯になり、すっかり取り乱してしまい、大変後悔いたしました。それは、こうした場合、涙を見せぬ東洋人に対して自分の弱さを現わしたと思ったからです』。(マカルピン回想録)
愛する息子クリスビーの最後にも、祈ってやれなかった父としてのマカルピン師の胸中は、遠く異郷の地日本に宣教師として奉仕する者の負わなければならない十字架であった。現在なら飛行機で飛んで駆けつけることができたでしょうに・・・。
6月27日、バラ先生は、アメリカから帰っての夏、神山に避暑しながら例のように伊豆の地に伝道旅行をした。御殿場神山から10月13日には東北仙台へと飛び、元気に活動された。続いて、同月南信州伊那谷の坂下教会へ稲垣 信教師と同行、4人に洗礼を授けた。まことに、すさまじい伝道精神である。
さらに11月15日 には、萬国日曜学校同盟会の教育部長・哲学博士ハミル氏が日本に来て講演会を持たれ、そのための歓迎会が同日夕方7時半から横浜メソジスト教会で開催された。バラ先生は、在日宣教師を代表して歓迎の辞を述べられた。日本宣教46年、時に75歳のバラ先生の美しい白鬚(しゆ)は、先生の伝道の生涯を物語って余りある輝きを放っていた。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」