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十戒と主の祈り・・・25・・・ 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=盗み=
第八戒①・人を盗むな
申命記24:7、Ⅰテモテ1:9~10
第八戒になりました。盗むことへの戒めです。何を盗むかということになると、名誉や時間のようなものも含めて物を盗むことだけでなく、人を盗むということの戒めでもあります。その証拠に、パウロはテモテに宛てた第一の手紙1章9~10節で、十戒の中の第八戒に相当する盗みに、人を「誘拐する者」を挙げています。最初は、その点を考えてみることにします。同じことが出エジプト記21章16節にも、申命記24章7節にも、「人を誘拐」することが特に挙げられています。
宗教改革時代のオランダに有名な神学者でホエチュス(1589~1676年)という人がいました。ドルト会議でアルミ二アンと闘ったことでもよく知られています。彼も、この盗みについて、誘拐のことであるして、具体的に4つのケースを挙げています。
第一は、ローマ教会によって子供が盗まれて、修道院に連れてこられる場合です。第二は、奴隷として盗まれて、売られることです。当時、東西インド諸島で行われていたようです。第三は、物乞いをさせるために子供が盗まれました。第四は、若い男女が将来結婚するために、少女を盗みました。こうしたことは、自由という価値ある宝を人間から奪うことになります。
この人を奪って奴隷にするという点で、十戒の前書きにあるように、イスラエル人はエジプトという「奴隷の家」から救い出されました。したがって、神はイスラエル人が自分たちの兄弟の自由を奪って、奴隷にすることを禁じられました。イスラエルには、戦争の捕虜になった外国人や何らかの理由で奴隷になった外国人がいました。それでも、彼ら奴隷の生活は、耐えられるような配慮を受けていたことは第四戒の安息日の戒めの言葉(出エジプト20:10、申命記23:16~17)から分かります。
宗教改革以後には、第八戒は特に奴隷として人を盗むことが問題の中心になりました。しかし、現在は奴隷制の廃止によって、この戒めが奴隷のことを指しているとは一般に考えることがなくなりました。それでも、人を誘拐することが、違った形で表れていることも事実です。
例えば、北朝鮮による日本人や韓国人の拉致問題、テロによるハイジャックで人質とされることも一時的にあります。しかし、誘拐以上に、植民地政策とか、人種差別というようなものは私たちの周囲に最近までありましたし、1980年代の末に廃止された南アフリカのアパルトヘイトは法的になされた差別でした。しかし、こうした特定なものではないとしても、不景気になると、賃金カットやリストラと言う圧力、市場の独占により価格を釣り上げることなどによって、巧妙に人々の自由や労働力の搾取があります。20世紀になっても、各国で明らかな搾取もありますし、それを見分けることが困難なものでもあります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」