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「キリスト教百話」
問29 「自殺」のことはどう考えたらよいでしょうか。残された者にとっては何とも釈然としないものが感じられてなりませんが。
答・・1・・
いささか教科書的な答えを言いますと、「モーセの十戒」の中には「殺してはならない」という戒めが神様からの断言的な命令として掲げられています。この「殺すな」ということは言うまでもなく、人殺しをしてはいけないということでありますが、それは他人についてだけでなく、自分のことについても命じられていることとして受け取るなら、自殺は神の命令に背く行為であり、「あなたは生きていてよろしいよ」とか「あなたは生きていてほしいよ、わたしはどんな時のもあなたをたすけるから・・・」と言われている神様の語りかけを無視することになります。
こういうことを、神様の側としてどう受け止められるでしょうか。「わたしがあんなに厳しく命じておいたのにそれに背くなんて怪しからん。あいつは救いようがない」とおっしゃるでしょうか。だとすると、葬ることはしても、葬りに先立っての式をして、その中で死んだ人のために何かを願うことはなくなってしまうことになります。
しかし、もし神様が「あれだけ厳しく言っておいたのに、わたしの許しも得ないで、自分で勝手に死んでしまったなんて、何とも残念、悔しい、が、そういうヤツだからと言って放ってはおけない、今からでも何とかしなくては・・・」と言われたとすると、葬りに際しても「この人のことを何とかよろしくお願いいたします」という執り成しの祈りが献げられることになります。
「殺すな」と言われても、戦争では相手を殺さなくてはなりません。また殺す意志は全くなくても過失致死ということがあります。また、自殺しても、「人生不可解」といって死んだ人もいれば、「生まれてきて済みません」と言って死んだ人もいます。中には自分が犯した罪を悔いたり、取り返しのつかない過失の責任を負うたりしての自殺もあれば、殉死や病気の治癒不能と知っての自殺もあったりで、その動機は様々であり、また余人には窺い知ることが出来ない点もあって、個々の自殺者については、生者の側で、何か一般論で説明することは難しいし、してはならないと思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
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「緑のまきば」
「聖霊とその働き」