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十戒と主の祈り・・・・・・ 鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=盗み=
第八戒②・不正な秤
申命記25:13~16、マタイ6:19~24
この申命記25章の禁止命令は、穀物などを仕入れるときには、大きな升やおもい重りを使い、その反対に売るときには小さな升や軽い重りを使って、その差から不正な利益を上がるということを禁止しているのです。これらは明らかな盗みです。
申命記の23章20~21節に、利子に関してこういう戒めがあります。「同胞には利子をつけてはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸しても良いが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えるためである」。
よく言われることですが、宗教改革時代までは、利子ということに対して、社会は否定的でした。それは、こうした聖書の言葉からきていました。しかし、カルヴァンの努力で、借金についての聖書解釈に光が与えられることになりました。借金によって仕事をして利益を得る場合、その借金に対して利子を払うのは当然だという考え方です。しかし、貧しい人々が生活のために借金することと区別されなければならないということです。更に、もう一つの一般的な原則を考慮する必要があります。それは旧約時代のイスラエルは、宗教と政治とが一つになった神権政治のもとにあり、神が自身への守りを保証してくださっていましたから、利子というものを考える必要がありませんでした。
現代ではむしろ借りたものを返さないという問題、不良債権があります。また、公的な資金の融資を受けて、返済が不能になり、国民が税金として払うことを余儀なくされるという問題があります。これらもみな盗みです。
そして、自分に与えられている神からの賜物を用いない怠惰ということも盗みになります。ウエストミンスター大教理問答問142問の答えは第八戒の禁止の内容が多くあり、その最後のところに、「・・・神が与えてくださった状態を・・・正当に用いず慰めとしないこと」が盗みとされています。自分の状態に不満を抱いて努力しないことが盗みです。
さらに、主イエスの山上の説教は、神と富とに兼ね仕えることができないことを教えています。富が目的になると、富は神のようになってしまうからです。蓄えることは良いことです。それは目的でなく手段です。将来のため、子供たちのため、不慮の出来事、老後などのためです。しかし、目的となると守銭奴やケチという盗みになります。
この反対に贅沢も盗みの一つです。浪費だからです。そして、信仰者はそのすべての所有の管理を、神から任されていますから、任されているものを良く管理しないということが、神のものを盗んでいることになります。逆に言えば、私たちは誰でも賜物の良き管理人となるように召されています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」