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「小閑記」
また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育ってゆくが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
=マルコ:26=27=
このみ言葉の中には、キリスト者としての、また神の国の働き人としての私たちに、大きな励ましがあります。私たちは、種をまいた日に実を見なければすぐに文句を言いたくなり、良いものは萎えて消えゆくのに、悪いものはどんどんと成長していると信じがちであります。しかし、イエス様は別の見方をなさいます。イエス様は、私たちの中に、私たちによって神の国は成長すると言われるのです。
主の恵みの雨と光によって、神の種は双葉から、熟した実となります。そこで、神のみ霊が、私たちの内に、信仰によって植えてくださった神のみ言葉を感謝して、その育つのを楽しみに待ちましょう。もし、キリスト者が、神とともなる命の成長を自分の内に見ることがないというので、また命の実を味わうことができないというので、信じることを止めるならば、それは短気で未熟な農夫がまいた種をたびたび掘り返して、芽を出しているかを見る愚かな姿に似ています。そのようにしては、聖なる命はその力を失い、その成長を妨げます。
なまけ者よ、蟻のところへ行き
そのすることを見て、知恵を得よ。
と箴言は言っています。キリスト者は社会と言う荒れ野に出て行くとき神のみ言葉に確信を得なければなりません。そこで、「神の国はある人が地に種をまくようなものなのである」と言われるのも、育て待たなければならないという責任と義務を果たすために、それぞれの賜物を用いて働かなければなりません。信仰と希望をもって、そっと見守り、世話をしつつ成長を待つことを、覚えるなら、確かな収穫を得るでしょう。
彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。
彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、
主の正しさを示すでしょう。
主はわが岩です。主には少しの不義もありません。
詩編92:13~15
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」