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「キリスト教百話」
問29 「自殺」のことはどう考えたらよいでしょうか。残された者にとっては何とも釈然としないものが感じられてなりませんが。
答・・2・・
ただし、生きている者として、自分自身が自殺へと向かう場合は、「帰るに家なく疲れはてて、望み無き身は死をぞ願う」という歌があるように(讃美歌244・3)自分の拠り所を失って疲れ果てて、生きているよりは死んだ方がましだと思うような事態に直面した時ではないかと思います。事実、生きていることの苦悩(その苦悩の内容や程度は別として)に耐え難い時には、それからの解放を願って死を選ぼうという思いに駆られるのであろうと思います。
しかし、それを実行に移すのは、今一つの何かの力が働くのではないかと思います。
その力というのは、人間には自殺したいと言い、思うようなことがあるにしても、それを阻んで実行に移せなくしているものがあるのですが、自殺を決行しようとする時には、もう戻らないというか、むしろもう戻れなくなってしまう力のことです。本人としては自殺することを自分で決心して決めたように思っているかもしれませんが、わたしにはそういう決心をさせてしまう何かの力が働いてのことではないかと思えてなりません。
日本の伝統的な言い方で言うと「死に神に取り憑かれた」とか「死に魅入られた」とか、または「魔がさした」などいうことになるかと思いますが、要するに、自殺する本人は自分の考えで自分の責任で死ぬことを考えたのでしょうが、実はそのように考えるということ自体が、そう考えさせて疑わない何者かの力が働いてのことではないかということです。
よく「自殺する勇気がない」と言われる方がおられますが、自殺は勇気があってすることではありませんし、勇気という言葉がそのように使われるのでは勇気が泣くというものでしょう。勇気と言うなら、むしろ自殺したくなるような苦渋の中で、それにもかかわらず生きていくことの方を勇気ありと言うべきでしょう。それは自分を自殺の方へと引き込む力に抗って勝つことでありまして、その勇気こそ讃えられて然るべきではないかと思います。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
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