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「小閑記」
イエスはさらにいわれた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
=マルコ10:24=
人間にとってキリスト教(信仰)と財産とを一つ(同時に持つ)にすることは、如何に難しいことでしょう。神様の基準とこの世(信仰なき罪の世界)の基準には、共通点は全くありません。
物質(富・財産)には、魔力があり罪と同じほどの力を私たちに対して持っています。滅びか、永遠の命かを選び取る時、誰も滅びを選ぶ人はいないでしょう。信仰と財産(欲望)を・・・と問われる時、理性や常識では、信仰を選びます。しかし、現実の私たちの姿(生活)は、如何でしょうか。不安に感じている人、貧しさに苦しんでいる時、富や財産があるなら、と考えるのが私たちです。
心から永遠の命を熱望している多くの人々が、決してそれを得られないのは、地上の富(欲望)が人の心を、神の国に対して閉ざさせるほどに魅力あるものだからです。罪の奴隷に魅力・魔力のあるのは、私たちの心に、二つを同時に得たいと言う、心の貪欲に支配されているからなのでしょう。
煌びやかなネオン輝く世界は、静まって神の恵みを待つ信仰の世界とは、全く異質です。両方を得ること、それは破滅の道です。
しかし、富み栄えた者が称賛され、勝利者とする社会にあって、信仰に生きる姿は、弱者・敗者とする基準でみるとき、神に生きることは容易ではありません。サタンは支配する奴隷の主人の姿をしながら、その姿は黄金に輝く光に覆われていて、惑わされ尊敬され、称賛される世界こそ、滅びの世界であるとイエス様は警告しているのです。
人はほどほどの富で十分であるから神様に生きているなどと思うなら、大きな間違いです。それは、柔和で、心へりくだった姿ではありません。
次のように祈ったのは賢い人でした。
「貧しくもなくまた富みもせず、ただなくならぬ食物で、わたしを養ってください」と。
この告白は、この世で、私たちにとって相応しいあるべき姿ではないでしょうか。すべての主にある者が、地上の持ち物、財産に囚われぬ自由な心を持ち、永遠の富を与えてくださる主に結ばれることを、生涯の道しるべにしたいものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」